栄養学を拓いた巨人たち「病原菌なき難病」征服のドラマ 杉晴夫 講談社(2013/4/19)
目次--------------------------------------------
はじめに
第1章 栄養学の黎明期
1 ラボアジエが発見した「体内の燃焼」
偉業を支えた莫大な研究費 「燃焼」とはなにか 生理学の始祖 非業の最期
2 カルノー父子が開いた熱力学の扉
受け継がれた「天才」 「カルノーサイクル」とはなにか
3 ボルツマンが解明した「熱の本能」
受け入れられなかった「分子・原子」 エネルギー実在論への挑戦 ボルツマンの「美しい数式」
第2章 「消化と吸収」をめぐる論争
1 「消化作用」の発見
ラボアジエの「遺言」 胃液の研究と「生化学」の成立
2 「三大栄養素」をめぐる論争
たんぱく質の発見 リービッヒの「三大栄養素」仮説 脂質と糖質についての誤解 エネルギー源論争とアルプスでの決着
3 「代謝」を解明した巨人
ベルナールの登場 偉大にして多彩な業績 家庭の崩壊
4 カロリー計算のはじまり
19世紀の食生活とエネルギー所要量 栄養学のドグマ
第3章 病原菌なき難病
1 「壊血病」の論争と決着
無視された治療法 ナポレオンえお破ったレモンジュース 解けたミステリー
2 「難病ペラグラ」糞尿まみれの解決
「病気の探偵」ゴールドバーガーの慧眼 頑迷なる反発 勇気ある実験
3 「脚気」と戦った先駆者たち
日本の海軍で続出した死者 劇的な効果 陸軍が引き起こした惨禍 エイクマンの成功と失望 米ぬかの重要因子を発見
4 マッカラムの脂溶性栄養素の発見
逃がされたチャンス 初めてネズミを実験に使用 栄養学の最も輝かしい勝利 もう一つの脂溶性因子の発見
第4章 ビタミン発見をめぐるドラマ
1 エイクマンとポプキンスのノーベル賞受賞
疑問がつきまとう受賞 「ビタミン命名者」フランクの憤慨
2 ビタミンAとビタミンDの発見
マッカラムの独走 「カロテン」はビタミンAの前駆体だった 偶然見つかったビタミンD
3 抗脚気因子「サイアミン」の発見
抗脚気因子の単離競争 ウィリアムズの4半世紀にわたる苦闘
4 ビタミンC発見をめぐって
モルモットによる壊血病研究 ビタミンC発見競争の開始 セント・ジェルジの天才的発想 ついにビタミンCを発見 キングと先取権争い セント・ジェルジの信念
5 さまざまなビタミンB複合体
ビタミンB2の発見 P-P因子の正体はニコチン酸 まだあるビタミンB複合体
6 そのほかのビタミンの発見
貧血に有効なビタミンB12 抗酸化作用をもつビタミンE 血液とビタミンK
第5章 エネルギー代謝解明をめぐるドラマ
1 「乳酸学説」の成立と崩壊
フレッチャーの先駆的実験 誤ったノーベル賞受賞 乳酸学説の崩壊 エムデンが解明した「解糖系」の反応経路 停滞した「燃焼過程」の研究
2 悲運のATP発見者
誰が最初の発見者なのか ATPが生みだす巨大なエネルギー フィスケとサバロウの悲運
3 燃焼経路の関門「補酵素A」の発見
酵素と補酵素のはたらき リップマンの遅咲き人生 ついに「補酵素A」を発見 リネンによる「アセチル補酵素A」の発見
4 クレブスの「クエン酸回路」発見
研究室を追われたクレブス 「片手間」で発見したオレニチンサイクル 見つかっていた2つの経路 結びついた経路 補酵素Aが投入するピルビン酸とアセチル基 大量に産出されるATP 脂肪酸分解反応の「死の接吻」
5 「ATP産出工場」ミトコンドリア
クロードが開発した遠心分離器 パラディーの電子顕微鏡法 ミトコンドリアの電子伝達系 ミッチェルの「化学浸透圧説」 「プロトン水車」の発見 ついに明かされたATP生成の神秘
6 クエン酸回路におけるビタミンの役割
三大栄養素を補完する3つの反応 三大栄養素のクエン酸回路への道筋 ビタミンはなぜ必要なのか 「人間不在の栄養学」
第6章 栄養学と社会とのつながり
1 健康食品とサプリメントの流行
米国で高まった「栄養剤」の機運 「食品」か「医薬品」か クエン酸をめぐる日本の裁判
2 「保健量」と「毛髪分析」という新たな視点
ポーリングの途方もない提唱 「保健量」という概念 毛髪分析でわかったミネラルの重要性
3 「日本栄養学の祖」佐伯矩
ようやく決着した「脚気問題」 「栄養」の造語者 国立栄養研究所の設立
4 サムス大佐が実現した学校給食
フーバー元大統領と「ララ物資」 学校給食をめぐる官僚とのせめぎあい サムスの卓見
5 最新栄養学の吸収と医薬分業
サムスの「特許権侵害のすすめ」 日野原重明と著作権問題 杉靖三郎の「ジャーナルAMA日本版」刊行 サムスの医薬分業への決意
コラム1 マリー・キュリーとランジュバンの非恋
コラム2 ベルナールとコッホに見る「偉大な夫」の難しさ
コラム3 森鴎外の実らなかったロマンスと後日譚
コラム4 混同正二の執念の「長寿者率調査」
おわりに
主要参考文献
さくいん
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終戦後、米軍がこの状況をくわしく調べた結果、次の事実が判明した。
(1)二流の医師が患者に処方して与えていた薬の大半は重層である。
(2)医師は自分の家族にこのような劣悪な、薬とはいえない薬を調合させている。
(3)薬の成分を分析すると、医師が請求する薬代は正当な価格よりはるかに高価である。
サムスはこの結果を見て、長期的視点に立って日本国民のためを思えば、たとえ医師に反発されようとも医薬分業を実現すべきだと判断した。
サムスはまず、当時は低いレベルにあった薬剤師の能力向上のために、日本薬剤師協会(現在の日本薬剤師会)を設立させた。さらに、日本医師会と日本歯科医師会との協議機関をおき、医薬分業の実現のための準備を整えはじめた。
当然ながら、日本医師会は既得権を失うまいと猛反対した。一方、日本薬剤師協会はこれに賛成であった。折から、米国薬剤師協会の視察団が調査のために来日し、日本政府に対して医師の患者への投薬を禁ずる医薬分業制度を発足させるよう勧告した。しかし日本医師会副会長の武見太郎は、さまざまな術策をもって医薬分業を有名無実にしようと画策した。これに対してサムスはついに怒りを爆発させ、日本医師会会長と武見副会長に不信任状を叩きつけ、彼らは更迭された。当時の米国行政官の権力がいかに強大だったかがわかる。
だが、この出来事があってからわずか数日後、サムスがわが国で献身的な努力をもって進めていた数々の事業は、突如終わりを迎えることになる。朝鮮戦争が勃発したのである。米国の極東政策は大きく舵を切り、マッカーサー元帥はやがてトルーマン大統領により解任され、米国帰国を命じられた。サムスもまたほかの駐留軍司令部の人々とともに帰国せざるをえなかった。
やがてサンフランシスコ講和条約が締結されて米軍占領時代は終わり、医薬分業は、サムスの帰国後に医師会会長に就任した武見により完全に骨抜きにされ、この状態が以後20年間も続くことになった。実体をともなった医薬分業が現在のように確立していくのは、1975年頃からのことである。
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