在留日本人の比島戦―フィリピン人との心の交流と戦乱

在留日本人の比島戦―フィリピン人との心の交流と戦乱 藤原則之 光人社(2007/02)
目次----------------------------------------------------------------
まえがき


第2の故郷―戦前のフィリピン


戦争直前の比島


大東亜戦争勃発


民兵誕生


悲戦、そして玉砕


兄貴との再会、山中の放浪


敵の包囲網脱出

                                                                                                                            • -

「おい、日の丸が見えるぞ! げたばきの水上機だぞ」
 獄舎内の私たちは窓辺に殺到した。何がなんだか、とにかく夢中だった。フィリピン陸軍とコンスタブレー隊士が大空を悠々と旋回する日の丸機を射撃しはじめた。上空から機関銃の掃射音が聞こえる。ドカンという地響きが、3、4回私たちの獄舎をゆるがせた。日本機が日本人を収容されているとも知らずに、ここを爆撃するのではないかと気が気ではなかった。さいわいなことにフィリピンの兵士がすぐに逃げだしてしまったので、水上機も立ち去ってしまった。外界は物音ひとつしない異様な静けさだ。
 私たち50名の日本人とガナプ党員200名を残置したまま兵士も獄番もいなくなってしまったのだ。獄舎の戸には頑丈な錠が外からかけられたまま放置されたのであるから、私たちは外に出ることができなくなってしまったのである。急に静かになった外界に、取り残された不安はいくらかあったが、何となく安心感が内心を包み、誰も彼も気抜けしてしまっていた。
 1時間も経過したと思う頃、外界が急に騒がしくなった。ガナプ党員たちが救出に駆けつけてくれたのであった。外に出た私は、思いきり腕を伸ばして空気を吸い込んだ。太陽の光も嬉しい。12月8日以来、ようやく娑婆の空気が吸えた喜びがひしひしと身にしみる思いだった。ガナプ党員の家族がみんなで食糧を集め、心から親身にもてなしてくれたありがたさは、今でもはっきり覚えてる。

この日本兵たちも、この谷間をさまよっているピリピノたちは日本国と日本人に絶大な信頼を寄せている友人であるぐらいのことは知っていたはずである。日本人が一緒でないことを承知したうえで、イシドロ君夫妻を襲った計画的行動だったと思われても仕方がない。
 ホセとパストルが私に近づいきた。今まで私に見せたこともない深刻な表情をしていた。
「どうして日本兵はこんなことをするのか。私たちは友達同士ではなかったのか?」
「彼らは頭が狂ったのだろう。空腹のためと思う」
 私はこう答えるほか慰める言葉を知らなかった。次第にガナプ党の人たちの日本兵に対する信頼が失われつつあることが私には痛いほどわかる。淋しく悲しい思いが深くなるのを静めることができなくなっていった。これから後もこんな事件が起こる可能性は十分ある。私は日本兵たちに今後どんな悪条件が訪れようとも、ピリピノの友人たちから不信の念を抱かれるような事件を起こしてほしくなかった。
 いよいよわれわれ日本兵、在留邦人、ガナプ党員ら、包囲網の中でごった返している約5万人に最後の時が近づきつつあるという予感がした。名も知らぬこの原始林の山中が、われわれの最後の場所となるのだろうか?

 春江さんは目を閉じたまま何も答えてくれなかった。町から近いと思わるここらあたりに、ぐずぐずしているわけにもいかない。いつ武装したゲリラ隊が巡回してこないとも限らない。気丈でしっかり娘の春江さんだから、どんな時にもどんな困難にも打ち勝って生き延びてほしい、と願って私たちは彼女と別れてこの地を去ったのである。
 この石田姉妹のことは、現在でも忘れることができない。今でも、どうなったのか、生きていてほしいと祈るような気持ちになることがある。