ノモンハンの戦い

ノモンハンの戦い シーシキン(著)田中克彦(編集, 翻訳)岩波書店(2006/1/17)
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この本を手にする読者のために


1939年のハルハ河畔にいける赤軍の戦闘行動 S.N.シーシキン大佐

序論


日本帝国主義者の計画とモンゴル人民共和国への攻撃準備
戦闘行動地域の特徴
1935年5月の戦闘行動
1939年7月2―5日にかけてのバヤン・ツァガーン山地区における戦闘
日本側の7月作戦計画
戦闘行動
ハルハ河東岸に足がかりを得るための7月戦
ソ・モ軍の8月攻撃作戦
8月20日頃の両軍の位置
ソ・モ軍司令部作戦計画
日本軍司令部の計画
作戦の経過
8月20日から23日までの戦闘行動
8月24日から27日かけての戦闘行動
8月28日から31日にかけての戦闘行動
作戦の総括


結語


ハルハ河の回想  シーモノフ



あとがき

                                                                                                                            • -

 最初のうち、日本の兵士たちは、地図の上に書き込まれた×印の通りに、墓を掘りかえす前に、「気をつけ!」の姿勢で整列し、戦闘帽をとってそれが地面につくまでに下げておじぎをしてからまたかぶり、そうして掘り出す際には、死者の遺体を傷つけないように注意深く作業にとりかかった。第1日目はそうだった。
 ところが3日目、4日目になると、様子が変ってきた。屍体はおびただしい量だったので、臭気はおそろしいほどまでに漂い、太陽は無慈悲に照りつけたので、兵士たちは口と鼻を、樹脂をしみ込ませた黒い包帯でおおってみたけどもどうぢようもなかった。兵士たちにわかったのはただ一つ、なるべく早くこんな葬式をきりあげて、今日の分ときめられていた仕事をやめにしたかったのである。
 シャベルだけじゃ間にあわなくて、今や鉄の鉤までつかわれはじめ、それが屍体を引っかけるのであった。シャベルを使って、もうせいいっぱい掘るので、土も屍体も切り刻んでしまう。まるで薪のように鉤でひっかけて持ち上げてから、半ば腐って、ぼろ切れのようになった人間のからだがトラックの中に投げ込まれていたのである。
 この光景は、じつに、たとえようもなく、ぞっとするものであった。だんだん面倒になって慣れてくると、もう、死んだ戦友の遺骸に対する、はじめの敬意に満ちた態度はますます失われていった。いまやこれは、単に墓掘り人の、果てしない仕事でしかなく、そのことは、日本軍兵士の、あの申し分ない規律にもかかわらず、兵士たちの上にかくしようもなく現れていた。私たちが受け取った情報によれば、葬送部隊の兵士たちは意気消沈していたと言う。すべての師団で、モンゴルにどんなにおびただしい数の屍体が葬られていたか、それからまた、そうしてみると、日本軍が喫した敗北がどれほどのものであったかを話しあっていた。
 はじめ日本側は、こうして話がひろがっていくのを防ごうとして、作業にあたる兵士たちを、いろいろな師団からではなく、一つの師団だけから選んで葬送隊を編成しようとした。しかしやがて、そんなことをしてもむだだとわかった―うわさは拡がり続けたし、また、日本側ができるだけ多くの屍体を掘り出そうとしたので、我が方が10日めにはもっと作業を続行できるよう許可を与えるつもりだったのに、日本側からやめてしまった。

ブラック・ラグーン22話 バラライカ「ニッポンの連中に、いくさの作法を教え込め」

容赦なきモもふくめ赤軍粛清、欧情勢、日・満側の係争地への交通の良さ。もし勝てばシナ事変の状況も好転可能性高く戦略上はまずまずではあった。だがしかしソ連は増強し日満航空優勢もなくなり、結果は完敗。まったく世は複雑怪奇である。
グルジアノモンハン戦を研究すべきだった?