ニコライの見た幕末日本

ニコライの見た幕末日本 ニコライ(著)中村健之介(翻訳) 講談社(1979/5/8)
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まえがき


ニコライの見た幕末日本
東洋的でない日本     あらゆる階層にゆきわたっている教育     外国に対する優越感と恐れ     すさまじい西欧追随      日本人の無神論は西欧のそれと異なる     神道とはどうゆうものか     仏教渡来後の神道     仏教=汎神論的宗教      日本人にとっての仏教     禅宗     門徒宗     法華宗      荒唐の根拠としての仏典      孔子教とは何か     中国における孔子     日本の孔子教     キリスト教の伝来     キリスト教禁止の理由     島原の乱     開国と幕末のキリスト教     明治政府の廃仏毀釈     明治政府とキリスト教      維新の実態


訳者注


解説
「日本のニコライ」
ドストエフスキーの信仰」

                                                                                                                              • -

 以上が神道の本質である。このような宗教は、明らかに文化程度のきわめて低い無知な民族にのみ認められるものである。すなわち、人間に元来存在する宗教的感情に促されて崇拝の対象を求めながらも、その知力はあたりの世界を超えることができず、自分に衝撃を与えるもの、驚嘆を呼び覚ますものならば何に対してもためらわず神として崇敬を捧げる、その程度の知的発達段階にある民族である。その知的自覚の程度たるやふと目に入った年古りた樅の木とか、変わった形をした石とかに直ぐ頭を垂れるほど低くはない、という程度なのである。こういう民族は、別の霊的世界が存在し、その世界が物質世界よりも優れたものであることを本能的に理解している。しかし、霊がこの民族を驚かすのは、単に個別的な身辺の現象としてであり、この民はそうした現象の前に平伏してそれを崇拝し、自分たち自身をも自然の全体をも、それらの現象の下に従属さあせるのである。

 そうであったから、仏教が日本へ渡来したとき、それに対して神道がほとんど何の抵抗も見せなかったというのも驚くに値しない。

 このような形態をとって、神道は現在もなお存続している。すなわちそれは、外から見ればあたかも宗教のごとき外見はしているが、合理主義者たちにとっては、内実は民衆の道徳教育の学校なのである。しかも彼ら合理主義者は、民衆が、宗教に帰依するように神道を信じてくれることを望んでいる。だが、民衆が神道を信じている度合いは、合理主義者たちがそれを信じている度合いと変わらない。加えて民衆は合理主義者たちのように知的に高く跳ね上がってはいないから、神道に道徳教育の学校を見たりしてはいない。前にも引いた「帝がそう願われたならば、天から火が下って異国人を一人残らず焼き殺してしまうさ」という言葉を日本人が口にするときは、そこには極めて皮肉な意味がこめられているのである。

 そして彼らは、知らないで済まそうなどと思いはしないのだ。日本人は、相手側の言い分を聞こうともせず無知に留まるあの分離派教徒(ラスコーリニキ)の頑冥さとはおよそ無縁である。

氷菓 千反田えるわたし、気になります!」
千と千尋の神隠しの解説読んでるかと思った。あれ凄く面白いけど子供には長すぎて映画館では寝てしまうかも。大人向けだな。
ちっちゃいころのちーちゃんがかわいすぎる。