戦国の交渉人 外交僧・安国寺恵瓊の知られざる生涯

戦国の交渉人 外交僧・安国寺恵瓊の知られざる生涯 渡邊大門 洋泉社(2011/08)
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はじめに


序章 安国寺恵瓊の出自と周辺
安芸武田氏の出自     恵瓊の誕生     師・竺雲恵心との邂逅     東福寺への入寺     安芸国常栄寺と恵瓊     戦国期における僧侶の役割     毛利氏と仁雲     ヨーロッパと日本の比較


第1章 恵瓊の本格的な活動
毛利氏発展の過程     毛利氏、九州へ     恵瓊のデビュー     毛利氏の危機     毛利・大友の和平     進まない和平     元就死す     和平交渉の実情     継続する和平交渉     宇喜多氏への不信感     恵瓊の鋭い判断     大局に立った視野     恵瓊の情報収集能力


第2章 織田信長足利義昭との関係
窮地に立つ義昭     頼られる毛利氏     3人の交渉人     信長・義昭間の調停     交渉の経過     恵瓊の情報網     恵瓊の人物評価     織田家との関係決裂     義昭、備後国鞆へ     「鞆幕府」の成立     「鞆幕府」に集まった大名たち     「鞆幕府」の評価     恵瓊の洞察力     恵瓊の役割     恵瓊と宇喜多氏     毛利氏の作戦     宗教界との人脈


第3章 備中国高松城の攻防と恵瓊
羽柴秀吉の登場     備中国高松城へ     秀吉軍の周到な戦い     本能寺の変の勃発     和平協定の内容     清水宗治切腹は和平の条件か     恵瓊の説得は事実か    五ヶ国割譲問題をめぐって     五ヶ国の中身と和平条件     信長後継者問題     さらに続く交渉     秀吉の自信     恵瓊、交渉のため大阪へ     人質問題を巡る交渉    毛利氏の本音     領土割譲問題の解決へ     中小領主層の処遇     秀吉の強硬姿勢


第4章 豊臣政権における恵瓊
信長の後継者秀吉     四国攻めでの恵瓊     九州島津氏征伐へ     島津氏討伐の決定     九州での激闘     九州攻めの論功行賞     肥後国一揆勃発     秀吉の厳しい態度     鎮圧後の肥後国     毛利氏と豊臣政権     恵瓊の位置付け


第5章 毛利氏家中の恵瓊
恵瓊の立場      恵瓊大名説をめぐって     確かな史料での確認     伊予国東部領有説      恵瓊配下の者たち     取次としての恵瓊     恵瓊の立ち位置     毛利領国内での恵瓊     検地への関与     人掃令とのかかわり


第6章 文禄・慶長の役で苦闘する恵瓊
大陸への思い     誤解された交渉     広島城での恵瓊     恵瓊、朝鮮半島へ      恵瓊の役割      秀吉の壮大な構想      恵瓊の戦い     日本軍の不協和音      恵瓊と広家との確執はあったか      再び朝鮮半島へ     老体に鞭打つ恵瓊     戦いの激化     秀吉の死と朝鮮半島からの撤退


終章 運命の関ヶ原合戦と恵瓊の最期
朝鮮出兵前後の毛利家一門     吉川元春の死     小早川隆景の死     毛利宗家の後継者問題     恵瓊の危機感      託された五大老      分裂する毛利家一門     恵瓊の説得     広家の動き      七将襲撃事件前夜     事件と恵瓊の関与     三成と恵瓊     毛利氏、西軍へ     吉川広家の回顧     いざ関ヶ原へ     取り交わされた起請文     恵瓊の最期      罪を負わされた3人      誤った恵瓊観を正す


おわりに


おもな参考文献

                                                                                                                              • -

当主輝元や元春・隆景が各地(特に畿内およびその周辺)に出掛けることは困難であり、配下の者たちの報告が頼りだったのは事実である。戦況報告は随時戦場の武将から寄せられるが、中央を含めた国内情勢を知るのは極めて困難であった。
 その中で恵瓊の存在は、単に毛利氏内部に止まらず、宗教界においても重きを置かれていた。恵瓊は長く東福寺で修行を積んでいたが、その役割も徐々に責任のある立場へと変わっている。永禄年間から元亀年間にかけて、恵瓊は東福寺の蔵主・首座へと出世の階段を駆け上がっていった。同時に、安芸国安国寺の住持にもなっている。そして、恵瓊は義昭の使者として貢献したことから、元亀3年〈1572)6月19日に正式に安国寺の住持に命じられた(「鹿苑院公文帳」)。
 地位の上昇は、中央での知名度を上げることになり、必然的に入ってくる情報も格段に良質なものになった。宗教界のみならず、多くの要人との接触も容易になったであろう。その中で恵瓊が痛感したのは、将軍足利義昭織田信長の存在の大きさである。毛利氏が争っているのは単なる局地戦であり、大友氏や浦上氏・宇喜多氏との小競り合いにしか過ぎない。天下を望むのであれば、中央の大局に立って物事を考えなくてはならない。
 輝元らは安芸国にあって、部分的な判断しか成し得なかったのが事実である。しかし、恵瓊が直に義昭や信長と面談し、また東福寺での高い地位を利用を利用して得た情報は、何ものにも勝るものがあった。恵瓊は信長の能力を高く買っていたようであるが、実際にものを言うのは将軍の権威であることを悟ったに違いない。信長が義昭を擁して入京したこと自体がその証でもある。恵瓊は義昭を利用しようと考えたのである。
 浦上氏や宇喜多氏でさえも、将軍義昭の意向に沿う準備があった。また、恵瓊が安国寺住持に就任できたのは、義昭のおかげでもあった。以上のように、隆景や元春には不満が残っていたが、恵瓊は中央の権威を高く評価して、和平を結ぶことを力強く進言したのである。しかし、義昭はこの直後に信長と不和となり、少なからず毛利氏にも影響を及ぼすことになる。

るろうに剣心京都編 斎藤一「この国の情報収集ならこの国の国家機構が一番すぐれている、俺が警視庁の密偵をやっている理由のひとつさ。ここまで入ればもう道案内など不要、二手に分かれた方が得策というものだ」 四乃森蒼紫「つまり、抜刀斎たちを囮の捨て駒にするということか」 斎藤一「ま、そんなところだ」 四乃森蒼紫「幕末から続くお前と抜刀斎とのまだ決着を見ぬ勝負、もしここで抜刀斎が命を落とした時はどうする気だ」 斎藤一「ふ、その時は生き残ったほうの勝ちに決まっている。お前は役に立った、お前のおかげで敵の目も抜刀斎自身の目も俺からはずれた、これで俺は影のように動きがとれる」

僕も「これ私が作ったんですけどね、・・・・」って言ってみたい。