「読書余論」№53

兵頭二十八net私塾「読書余論」2010−11月期 №53
目次--------------------------------------------------------------------------------
豊田有恒『長編歴史小説 北方の夢 近代日本を先駆した風雲児ブラキストン』1999-4
 ボイラーで動く製材工場を箱館港内に建設。日本で最初の蒸気機関工場となる。木っ端を石炭の代用にしたので、常に補給していないと、丸鋸の回転がスローになった。住民の感想。これではエゾの森は数年で禿山になるに違いない、と。


 ギリシャのエウヘメロスは、神話に出てくる神々とは、それ以前に実在した人間の神格化であると主張。これは19世紀の欧州で定説化した。エウヘメリズムという。


 明治2年4月初旬、土方がニコライ神父とともにブラキストンを訪ねた。そして、ロシア政府に軍事介入を働きかけてくれぬかと相談をもちかけた。

▼竹内運平『箱館海戦史話』復刻S55、原S18-7
品川時点では、蝦夷に行くとは決めていなかった。仙台に来て、いろいろ考えさせられた。オプションとして、佐渡をとる、対馬をとって朝鮮を征伐する、ウェンリートという布哇総領事のすすめにしたがって当時独立国のハワイに移住する、などもあった。


また、日付不明だが、津軽藩は、「深浦」に11人、「小泊」には10人からなる隊をそれぞれ派遣し、窮鼠状態の徳川脱籍軍によるゲリラ的なヤケクソの破壊放火撹乱工作や、難民の救恤に備えさせている。


 津軽藩は官軍のために領内から2574人、自藩で使役するためにそれとは別に5261人の軍夫を徴用し、提供した。
 M1-12月時点で、津軽と南部領内に滞在している官軍将兵のために津軽藩が提供しなければならなかった兵粮は、月に1万俵に達した。幸い、津軽藩にはコメの蓄積があったので、のべ数ヶ月におよぶ負担が可能だったのだという。


徳川脱籍軍の中には英語に巧みな人は甚だ多かった。これは開拓使の雇米人、エドウィン・ダンの証言。


 海戦に参加した艦のうち、千代田形をのぞくとすべて外国で建造されたものだった。


千島樺太交換条約にはとうじ、反対意見もあった。が、黒田は北海道開拓が急務なのだと絶叫。樺太に使う費用はぜんぶ北海道に投下すべきだとの信念だった。この黒田の意見を榎本が露国公使となって折衝し、条約を締結した。


新政府は蝦夷防衛を重視していたから、関東奥羽が鎮定しないうちに、箱館裁判所を設け、清水谷公考を戊辰閏4月に箱館へ赴かせた。
 維新の直前、箱館周辺は松前藩領ではなく、幕府領であった。

▼海洋・東アジア研究会編『海上保安庁進化論――海洋国家日本のポリスシーパワー』2009-5
 日本船主協会のHPが便利だ。


 シナと韓国がモメている蘇岩礁。韓国最南の馬羅島から西南150kmにあり、干潮でも露岩しない。水面下4.6m。韓国はこの暗礁を離於島[イオド]、波浪島[バランド]と呼称。2001に韓国はこの島に巨大な鉄筋15階建て相当の建物を建設し、衛星レーダーを置いた。シナ政府は抗議する一方でこの問題を国内で報道せず。ネット市民が怒っている。


 竹島はGHQ覚書のせいで日本の行政権を行使し得なかった。かつまた日本漁船の操業区域を規定した「マッカーサーライン」の外側にあった。韓国はサンフランシスコ条約が締結される前の1952に、李承晩ライン内に含めた。1965の日韓漁業協定までの13年間、日本漁民の死傷44人。韓国は1954-7から竹島に警備隊員を常駐させた。


 2005-6に与那国島付近で、水産庁の漁業監視取締船が台湾漁船7隻により取り囲まれた(p.42)。

▼中田祝夫・校注&訳『日本古典文学全集 6 日本霊異記』S50、小学館
私度僧による自己弁護文学である。
 いつも同じ話では聴衆が飽きるから、決して飽きさせないネタの宝庫として編纂された。

 シナには『冥報記』『金剛般若経集験記』などの仏教霊異譚が先行してあり。それを自土=日本でやってみようと景戒は思った。


今昔物語は、A.D.1100〜1200ごろ成立。霊異記とは72話もの共通がある。しかも霊異記からの直接引用がほとんど。


 僧が外典という場合、それは儒教のこと。


第9話は、鷲にさらわれた嬰児が父と再会する話。南方熊楠の解釈。鷲の巣の中にはよく、石がみつかる。それは安産や育児の呪力があると信じられた。そこからの連想だと。世界中に類話がある、と。


恨みに対して恨みで答えるのは、枯草で火を消すようなものである。

▼篠原昌人『陸軍戦略の先駆者 小川又次』2000-7
鳥尾小弥太は大阪で後方事務を仕切った。藤田伝三(萩出身)の邸宅を事務所代わりにしていた。
 藤田は、元・山城屋の番頭。
 西南戦争が始まると、山田顕義の助言で、軍靴の製造に乗り出した。被服、蚊帳まで納入。
 鹿児島が陥落すると、こんどは凱旋軍の防疫に必要な石炭酸を大量に仕入れて儲けた。※いったい箱館戦争後の凱旋では検疫はやったのだろうか?


任期があと3ヶ月というところで、メッケルは日本で最初の参謀旅行をやった。M21-2-10から。
 このときの指摘。本土のどこかに敵軍が上陸したら、小部隊ではなく、大部隊を向かわせねばならない。さもないと、軍が住民から怨まれることになるから。


M23の参本から全国6師団への命令。野砲隊が利用できる道路をすべて把握しておけ、と。


M18に農商務相であった谷干城。すでに予備役だが、英国のまねはいかんと主張。英国のように海外領土が広すぎる国は、海軍による「移動防禦」が必要だが、日本は日本列島だけ守ればいいので、「固定防禦」が合理的だと主張。軍艦よりも安い砲台で可いじゃないかと。また戦艦にカネをかけるより、海軍士官の育成にカネをかけろ、と。※小型の水雷艇で行こうよ、と説いたのなら、ジイサン良いこと言うねと首肯もできるが、砲台ではダメですよ。箱館戦争体験者ならこんな勘違いはしない筈。


 曾我が『国民之友』に書いた「談兵代正誤」。進取の力がなければ防禦もできない、という者がいる。攻撃は最大の防禦だという理屈だ。これは戦場では正しい。しかし、国防政策では正しくない。日本は対外侵略する必要はないのだ、と。※これもGood。だれか曾我の伝記をめぐんでくれ。


 輜重科ながら大本営参謀になった大澤界雄・大尉。M26にドイツ留学。M30に欧州長期出張。M31-7に「鉄道の改良に関する意見」をリポート。今日では、軌幅の3倍まで車両の復員を増せるようになっているから、いまさら広軌にする必要はない、と。それよりもむしろ、複線化を進めよ、と。また、曲率や勾配についての全国共通規格を政府が打ち出すべし、と。
 M31-9には、システム統一のために国有化すべしとも主張。「鉄道国有論」。理由。開発資金は外債頼みになるだろうから、もうこれからは民間小企業では信用されない。ポイントの動かし方などは全国共通にしなければならない。保線要員の教育を全国で共通化しなければならない。軍事輸送では下車点は人も貨物も海岸になる。そこでは空になった列車を消毒する設備も必要。逆に石炭の貯蔵所は、内陸に置かれる。つまり民間に分割しておいては、負担が不公平になってしまう。
 西南戦争では、復員と同時にコレラが大流行してしまった。検疫をしなかったため。日清戦争では後藤新平が、内務省衛生局長として似島で頑張った。


西南戦争では、大阪鎮台は最多の犠牲者を出した。歩兵3個聯隊で、戦死1242名。これに次ぐのが東京鎮台の996名。


小川いわく、千早城が陥落しなかったのは、補給が続いたから。


またある人いわく、部下に対して日頃から峻烈であった、と。※だからこそ、隊紀の粛正にもってこいだったのだ。


 このときの第8聯隊長は、能美 成一 大佐。※山口出身で、歩8長となるために陸軍に入ったような軍歴。苦労をしただけで報われずに消えたこうした人材を多数出しているのも、山口県なのである。同郷贔屓人事は、後輩の選り好みを許さないシステムでもある。

▼朝永三十郎『近世に於ける「我」の自覚史』S16repr. 初版大5
これを肯定するのがホブズの政治論。人民行動の標準は、自己の良心ではなく、君主の意志であるべきだ。宗派の是非も君主が一存で決めるべし。人民はそれを拒むことはゆるされない。国家の承認を得ない宗教は迷信だ。そもそも宗教は人民教化の方便に過ぎない。このようにホブズは近世人として露骨に個人の自由を否定した。それほどにクロムウェル革命の混乱が悲惨であった。


理知がこんどは教会に代わる専制君主となってきた。そして人々の感情を圧迫するようになってきた。これに反発したのがまずルソーであり、ドイツのシュトルムウントドラング詩人たちだ。


数学上の根本命題は、先天直覚。ただし、時間空間が先天直覚だから、数学は可能なのだ。


 ヘーゲルいわく、哲学は徹頭徹尾、その時代の拘束に服従す。


 ドイツ唯物論に続いてダーウィンがあらわれ、さらに唯物論は強化された。その結果、人々はただ、成り行くがままの現実に安んずるより外はないと思うようになった。これがロマンティック期。


 1840年代、ドイツ統一の宿望は空に帰し、大頓挫。人心消沈。向上的努力など無効だと思われた。理想的精神など無意義だと。だったら、理想ではなく現実に安んずればよい。これがドイツ唯物論の下地。
 さらにショーペンハウエルは、現世を厭離して、涅槃を説いた。もちろんインド哲学の影響。


為政の標準は、人民の幸福や安寧ではなくして、その自由でなければならぬ。
 法の起源は自由にあって幸福にはない。治者の擁護せざる可からざるものは幸福でなくして自由である(p.421)。


敗亡すなわち文化の滅亡ではない。ユダヤ国家は亡びたが、一神教は残っている。ギリシャのポリスは滅ぼされたが、科学、技術、芸術は伝えられている。破壊された旧は、高等なる新の中に永久に保存されるのだ。


 唯物史観は、人を動かす根本の力は、ただ物質的欲望であるとする。
 宗教、芸術、学問などの精神活動も、それを動かしている決定力は、じつはすべて経済作用なので、その経済作用以外には何もない、とする。
 この徹頭徹尾現実主義、非理想主義を政治で実現したのが、ビスマルクだった。
 理想の代わりに力が崇拝されるようになった。「文化国家」はどうでもよくなり、強国であることが理想となった。
 領有、そして富を求める。
 この延長にWWIがある。つまりヘーゲルマルクスビスマルクがWWIの種を播いたのだ。


 理想の力は弱いのだろうか? そんなことはない。今次戦争(WWI)ではどの国も、自己を弁護し他を責めるのにあたり、常に正義・人道の如き善の理想に訴えているではないか。
 それは偽善か? 「偽善の行なはるゝといふことが頓て善の力を示すではないか。善に力のないところに偽善の必要はないではないか」(p.457)。


 フムボルトの教育制度改革は、まったく、哲学の体系的見地から企画されている。彼は世紀初めにアメリカを探検して帰って来た。


ヘーゲル左派は1840年代から唯物論を唱え始め、1850年を過ぎるとそれに自然科学の方から擦り寄ってきた。
 厭世観唯物論とは通底する。どちらも、歴史の意義、歴史の目的を無視する。
 永劫に同様なる反復が人類史であり、それは自然法に近く、それが世界過程を支配している、と見るのが唯物史観。※ギリシャ史学の焼き直しだ。


▼武井群嗣・田中好『土木行政』(自治行政叢書VOL.9)S10-10
軍令で国防事業の土地収用も可能だった。これだと天皇大権だから、行政法規と無関係になる。


▼海軍航空本部『金星発動機五〇型取扱説明書 改訂第一版(51〜54型)』S17-6

▼『タンパク毒素』上・下、S47

▼長野 朗『暗雲ただよふ 満蒙』S6-11
新興工業国は、外国の農民にモノを売りつけられればいちばんGOOD。しかし、米国が脱農業→商国化し、シナは日貨排斥をし、インドも独立をもとめ、かくして日本工業は日本農民に養ってもらうこととなり、農村は疲弊した。


▼永岡慶之助『散華・会津藩の怨念』S52

▼永岡慶之助『会津戦争始末記』S48
蛤御門では、会津兵は危なかったが薩兵300のおかげで撃退できた。助けられていなければ、反省できたのだが。


▼東洋協会調査部ed.『北鮮三港と日満通商関係』S18-8
 商港の繁栄は、後背地の景気が決定する。

▼樋口清策ed.『自然及経済地理概説備考』S12-6
 生糸は米国にしか輸出できない。
 米国で値段が決まる。
 S5から、売れぬ分をフランスに出そうとしたが、ごくわずかのみ売れた。
 S5からはシナ産も売れないので彼らも苦しんでいる。
 絹織物製品として米国が輸入する量は、わずかである。


原田二郎『戦闘神技 戦術の常識』S18-12
 ガ島で日本兵が手をあげたので降伏かと思ったらそれは突撃or自決前の万歳であった(pp.14-15)。※これはたぶん元ネタがアメリカの雑誌であろう。その米人記者は現地部隊に取材したのだろう。米軍は、斥候をかなり大胆に前へ出していたことが推定される。
 ※ガダルカナル敗報は国民に届いていたのだ。だからこのような逆宣伝の本が書かれねばならなかったのだろう。


▼榊原平八『代用食 芋と南瓜の上手な食べ方』S20-10
 伊豆七島では、牛乳と陸稲の普及で、逆に島民の腰が曲がるようになったといわれる。唐芋と魚しかなかった昔の方が健康的だった、と。


▼神奈川県食糧営団ed.『決戦食生活工夫集』S19-12
 イモの皮は蒸してから剥け。
 野菜は漬物にするな!
 魚の骨と頭はフライパンで焼き、擂り鉢で粉にすれば、ふりかけになる。
 腸(わた)は塩辛にせよ。1割の塩で、1週間でできあがる。


及川道子『いばらの道』皇紀2595年刊
 東京音楽学校一ツ橋分教場の入学試験。ピアノ伴奏がわざと、まちがったキーを叩いて聴覚を試す。たったひとり、それに気付いて合格した。


▼神崎照恵ed.『新更論集』S8-7所収、伊東政喜「兵器を中心とせる国防問題」

▼隅部一雄『大陸と科学』S13-10
東京ぜんたいの自動車数が1万3000台ぐらい。
 ベルリンは少ない方だが10万台以上ある。
 ロンドン、NY、パリとは比較にもならん。


▼伊崎浩司『討伐日記』S17-12
中支はマラリア蚊多し。


▼張君約・著、藤田実tr.『支那屯田兵制史』S17-1
 ※圧倒的な「事典」である。斯学に心を留める人の捜書博覧の労を省いてくれようという企画。


シナ人が軍隊を生産化したのは、この制に始まる。
 清代ですたれて、民業と同様になった。

▼日野開三郎『中世支那軍閥――唐と五代の藩鎮の研究』S17-11
 玄宗が置かせた辺境防備用の節度使軍閥化し、安史の乱を呼んでしまった。
 そこで内地に「藩鎮」を列置すると、これまた軍閥化し、恣に官吏を任免、封域を世襲し、宛然独立の一国。


▼北山康夫『北支那の戦争地理』S14-12
北夷の圧力で、晋が揚子江に南移、南の文化を創る。隋〜唐が南北運河を掘ってこれを結ぶ。長安の人口は南方のコメで養われ、大運河が漕運途絶するや、軍民飢死に瀕す。


北京を最初に首都にしたのは女真で1153のこと。その基礎づくりは、契丹がやっていた。その前は唐の節度使の城はあっただろう。
 北に偏しているが、満州と北支の両地を統治するには都合がよい。清もその理由から北京を首都にした。
 明は、対北方防衛の便利から、やはり北京。
 北京の弱点は、通州と結んだ運河にある。元が亡びたのも、清が英国に降ったのも、ここを扼されたため。運漕梗絶。


長安は四塞の国の中央にあって、最も守り易い。
 開封は、四通五達の郊にあって、最も攻め易い。
 洛陽は、この長安開封をおさめる拠点なのだ。

▼藤村駒蔵『函館図書館叢書 第十一篇 嗚呼瓦全の僕』S10-3
刀(兼氏)で鉄線(鉄条網)を切ったら、刃がめちゃめちゃに欠けた(p.30)。

▼井坂錦江『水滸伝支那民族』S17-5
 山路愛山に「支那支那人を識るには、支那の小説を克く読むに限るよ」といわれて、読んだ。幾度か、吾と我膝を叩いた。
 軽視されている#82〜#120の大遼〜方蝋征伐記が実は資料の宝庫なのだ。特に権謀に関し。


天に代わってする思想「替天行道主義」


服部いわく、シナでは士と農工商は、コンバーチブル


▼日本工業協会ed.『物資動員』S14-4

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とある魔術の禁書目録Ⅱ6話 白井黒子ジャッジメントですの」