「読書余論」№51

兵頭二十八net私塾「読書余論」2010−9月期 №51
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▼尾上正男『独ソ不可侵条約論』S37-11

1937 における、戦争潜在力。世界全体を100 とした場合、アメリカが41.7、ドイツ14.4、ソ連14.0、英国10.2、フランス4.2、日本3.5、イタリア2.5。※どうして日本はWWII でイタリアより少数の戦車しかつくれなかったか。ほとんど鉄を船に回していたからだ。

▼広瀬彦太ed.『榎本武揚 西比利亞日記』S18-7

クンヌイ〔国縫〕や十勝の砂金洗いを思い出した(p.78)。
ロシアの現場監督は、わざと金の多量に混じった砂を用意して榎本を騙そうとした。山師が人を騙すという態度ではない。旦那の機嫌はとらねばならぬという精神らしい。

▼富樫敏『日本の別荘地』1973
▼離求庵『さらり〜まんに別荘が建つ』1993-10
▼古島敏雄・校注『百姓伝記』上下、1977 イワブン
三枝博音『復刻 日本科学古典全書 5』S53repr. 原S19
▼木下桂風『釜の歴史と鑑賞』S54repr. 原S27
▼須藤隆仙ed.『箱館戦争史料集』1996-8

7つ半時頃には官軍は一本木に攻めかかった。
徳川兵はかなわず、津軽陣屋まで逃げた。逃げる途中で関門役所の茶屋すべてに放火した。山の上からじぶんの家作が焼けるのを見ている避難民はただ念仏を唱えるのみ。その夜はずっと津軽陣屋を攻めたが、落ちず。
5-13 頃は外国人も見物。日本の戦争は丸裸でやっているからおそろしい、と感想を述べていた。

M2-3-20 に、津軽から間諜が戻った。宮古湾襲撃で直前まで他国旗を掲げたのは、南北戦争で南軍の『アラバマ』がやったことあり。朝の5時にアメリカ国旗を揚げて突入した

二股口では敵は多くスペンサー銃を用いたらしく、ドースの殻が、おびただしく樹の下などに撒布されていた。
※二股口の薩摩軍に対して善戦したことが、「オレたちが任されていたなら鳥羽伏見や上野のようなことはなかった」という証明に。よって気が済んだわけである。

清水谷についてきた役人どもは頽廃していた。しかしわれわれはその下で働くしかなかったのである。

回天は10-11 に折浜を出て、気仙に着いた。そこで海賊船になっていた千秋を奪回し、回天は15 日にそれを曳航して出帆、16 日に宮古に来た。
このとき罰則をつくった。敵と対陣しているとき、番兵が眠った場合、銃火によって死罪たるべし。半隊司令以上は、銃を持たざること。敵の首級、取るにおよばざること。など。

11-13 に額兵隊は原口(江良町の1日行程先にあり)に進んだ。敵の間者が食物に毒を入れたのを知らず、三田村徳太郎など十数人が、悉く苦しんで食物を吐いた。その家の者を訊問したが何も知らないという。そこで、同じ、蛸の酢味噌あえを家の者たちにも食わせたら、皆、苦しんでこれを吐いた。徳川軍の下僕になりすまして兵粮の周旋をした者の仕業と見当がついた。医官の伊東友賢いわく、砒石だろう。悉く吐かせてその毒を払え、と。※これだけで治ったのは、要するに量が少なかったのである。

箱館府が流通させようとした紙幣50 万円があったのが、市民の眼前で焼却した。

逃亡者は、会津遊撃隊と陸軍隊に多かった。陸軍隊の隊長はさすがに逃亡しなかったが。先に逃亡した仲間が、次々に誘うのである。

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リーネちゃんは最終回もやっぱりかわいかった。