【新版】雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り

【新版】雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り 藤木久志 朝日新聞社(2005/6/10)
目次

プロローグ
食うための戦争  Ⅰ濫妨狼藉の世界  Ⅱ戦場の雑兵たち  Ⅲ戦場の村―村の城  Ⅳ戦場から都市へ―雑兵たちの行方  エピローグ

Ⅰ 濫妨狼藉の世界

1 戦国の戦場
 乱取りの世界
九州島津軍の戦場の生捕り  南肥後の戦場  紀泉国境の戦場  奥羽の戦場  男女牛馬いっさい取るべからず  乱取り・乱妨取り  『甲陽軍艦』の描く乱取り  乱取りする日  身代金の習俗  奴隷売買の痕跡  苅田狼藉の世界  
 天下統一の戦場から
天正15年夏の奴隷問答  秀吉人身売買禁止の初令―バテレン追放令のなかで  秀吉の見た九州戦場の乱取り  フロイスの告発  天正16年令(人身売買破棄宣言)の発見  秀吉人身売買停止令の位置  東国の平和と秀吉令  
2 朝鮮侵略の戦場
平和と侵略  男女生捕り、日々に参る  サルミ・テルマ・カクセイ  戦場の人買い商人  朝鮮戦場からのメッセージ  
3 江戸初期の戦場
関ケ原戦場の人取り禁令  大阪の陣の奴隷狩り  濫妨人改めの帳  戦争奴隷たちの行方  近世初期の人身売買停止令
4 奴隷狩りの系譜
将門の乱の人取り  鎌倉武士の戦場  戦国の検断の光景  中世検断の暴力  いのち助かる儀  

Ⅱ 戦場の雑兵たち

1 口減らしの戦場
秋冬はいくさをする  春に飢える  戦場の出稼ぎ―村を捨てる百姓たち  大阪の陣の出稼ぎ  戦国武士は兵農未分離か  兵を集める条件  田植えする武士たちの伝説  
2 渡り歩く奉公人たち
一僕の者  一騎当千の下人  渡り中間の原像  古代の傭兵たち  傭兵たちの風貌―かぶき者の面影  
3 戦場の悪党・海賊・商人
夜討・朝がけ・忍びの悪党  夜走・夜盗いたす者  ゲリラ請負人たち  鎌倉期の傭兵像  海賊の棟梁と侵略軍―伊丹屋助四郎のこと  戦場の飢餓と商人  両属の商人・死の商人  戦場の商人

Ⅲ 戦場の村―村の城

1 城は民衆の避難場所
高みの見物論  あがり城―領主の城に避難する  城あがり・山あがり―村の避難の二つの型  城籠りの習俗  立花城下に秋山口を探す  フロイスの見た戦場の城籠り  落城の光景  開かれた曲輪  城の維持管理は村のつとめ  村の末代請切  寺社に逃げ籠る  九州の村の城  村人の小屋上がり  
2 安堵を買う
半手の村・半納の村  百姓免除の制札  禁制を買う  還住の制札  還住の保障  フロイスの見た国替えの惨禍  中世還住の原型―代替り徳政の系譜 

Ⅳ 戦場から都市へ―雑兵たちの行方

1 浪人停止令
戦争から平和へ、戦場から普請場へ  平和と浪人  浪人と毒薬―毒の売買停止令  
2 「身分法」と人掃令 
天正19年8月令をどう見るか  奉公人は町人になるな―戦場から都市への奔流  百姓も町人になるな―過疎化するムラ  奉公人法度  都市の下人相論  六十六か国人掃令  襖の下張りは語る  新たな奉公人軍需
3 日用停止令
戦場から都市へ―日用(日雇い)たちの奔流  二つの日用停止令  日用停止令は何を目指したか  日用たちの世界  築城ブーム  
4 悪党停止令
普請場無残  辻切・スリ・盗賊停止令  無数の石川五右衛門たち  奉公人たちの五人組・十人組  奉公人の連判と海賊の誓紙と  下人十人組から京の町の十人組へ

エピローグ―東南アジアの戦場へ

日本軍、ルソンに侵攻か―マニラ総督の危機感  日本人の傭兵と奴隷  無数の山田長政たち  東南アジアに流れる武器と傭兵  武器・奴隷・傭兵の禁輸令  オランダ・イギリス商館の反応  傭兵禁輸令の衝撃  おわりに

あとがき

朝日選書版 あとがき

戦国期の災害年表―凶作・飢饉・疫病を中心に

索引

ひどく市民に評判の悪い施策であったが、十人組作りは強行され、治安維持の誓いと抱き合わせにして、推し進められた様子である。
その十年後、慶長十八年(1613)九月に冷泉町の書いた誓約書にも、もし背いたら「拾人組、同一町ともに、如何様にも御成敗」を、と明記していた。京の治安維持のために、十人組と町共同体がともに機能するよう、二重に仕組まれていたのであった。この組は、町内の家持の町人だけを、軒並みに十軒ずつ、機械的にまとめて作られたものらしく、借家人はその中に埋めこまれていた、と見られている。
なお、この十人組の制は、大阪夏の陣が終わった元和元年(1615)十月、敵方の残党や牢人の取り締まり、という新たな課題を担って再編成された、という。機械的な組み合わせはやめて、五人でも八人でも、町内の実情に合わせて、無理のなに組わけに変えて、機能しやすいようにする、というのが再編の骨子であった。その翌月五月には、京のある町の九兵衛夫婦が、放火犯を匿ったという理由で、監視を怠った十人組ともども、所司代によって成敗されていた。こうして十人組は都市の暮らしに入りこみ、確かに機能を果たし始めていた。
秀吉が直面していた「辻切・スリ・盗賊」問題は、実は都市の治安問題だった。稼ぎ場だった戦場の閉鎖ののち、都市が新たな稼ぎ場として登場し、「秀吉の平和後」の矛盾の焦点もまた、都市に集中し始めていた。一切の原因はそこにあった。秀吉はそのために、侍五人組・下人十人組を組織し、家康もこの下人十人組の制を、京都の治安維持のため一般市民に及ぼしたのであった。

前に、アフリカは戦国時代に似てるとぼそっと言って、ぽか〜んとされたことがあった。いやいやいや!!僕もそんな本気で思ってるわけではないよ〜、文明の生態史観、程度に似てるかな〜??とちょっと思っただけですよ〜!!ふきふき・・・。