新版 白団(パイダン)―台湾軍をつくった日本軍将校たち

新版 白団(パイダン)―台湾軍をつくった日本軍将校たち 中村祐悦 芙蓉書房出版(2006/09)
目次

プロローグ バナナ船に潜んで密航した日本将校団

第1章 蒋介石への報恩のために
1 占領軍の臨検を逃れて結集した17名 
2 潰走する国民政府軍とアメリカの失望 
3 ある日本軍将官の冒険的な支援活動 
4 金門島の防衛戦とマスコミ報道 
5 『三国志』と密航秘話 
6 終戦直後の蒋介石と岡村寧次 
7 蒋介石による対日寛大政策
天皇制の護持 ②賠償請求権の放棄 ③日本の分割占領問題 ④引揚げ門題
8 岡村寧次の戦犯無罪

第2章 大陸反攻のキーパーソンズ
1 円山での短期教育開始と陸海空聯合演習
2 朝鮮戦争アメリカの再介入
3 蒋介石の「日本軍に学べ」
4 GHQに取り調べられた岡村寧次
5 影で支えた男たち①富士倶楽部
6 影で支えた男たち②神戸招商局
7 米国軍事顧問団と地下に潜行した「白団」

第3章 「白団」その教育の実際
1 円山軍官訓練団時代(1950〜1952年)
訓練団の概要  普通班の教育  高級班の教育  陸海空聯合演習の実施  人事訓練班の教育  聯勤後勤教育  歩兵操典と蒋介石の檄  学生レベルと勤務評定
2 石牌実践学社時代(1952〜1965年)
実践学社の概要  聯合作戦研究班の教育  科学軍官儲備訓練班の教育  戦史研究班(兵学班)の教育  高級兵学班の教育  戦術教育研究班の教育  プロフェッサーと統帥綱領  甲班と乙班の熾烈な戦い  周鴻慶事件の余波
3 陸軍指揮参謀大学時代(1965〜1968年)
指揮参謀大学での活動の概要  陸軍指揮参謀大学の教育をサポート  教官特訓班の教育  戦術推演指導講習班の教育  裁判人員師資講習班の教育  羅友倫作戦発展司令部に対する協力  白団への深い信頼を寄せた蒋介石のエピソード
4 湖口模範師団教育
模範師団教育の概要  匍匐前進の手本を示すことから  孫立人を魅了した夜間攻撃
5 動員教育と整備
動員教育の概要  特命による動員講演  動員の模範演習  動員幹部教育  軍隊動員  軍需動員と演習  曹士澂が語った《エピソード》
6 海・空軍教育
海軍・空軍教育の概要

第4章 無名英雄たちの足跡と台湾
1 大陸反攻作戦とJ・F・ダレス来台
2 日本軍システムの浸透と対日感情
3 戒厳令下をともに生きて

エピローグ 歴史への距離感のあり方

参考文献

この秘密機関は富士倶楽部と名づけられた。占領によって軍がなくなった日本に、ひそかに旧軍時代の体験と研究成果を残そうというものだった。メンバーの方々は、やがて『白団』の外貌は知られたようだが、いずれにせよ形は無関係。私はこの倶楽部の庶務係(またひとつ係がふえ)として入り、資料をまとめてはガリ版にして台湾に送り、現地からの要求は研究課題にもぐりこませては研究していただいた。もっとも、時には難儀もしたので、なにしろ優秀な頭脳の集まりであるため、聯隊長、参謀長はどうしたらいいか、という問題なのに、研究のワクが拡がりすぎ、こっちの注文とあわなくなるということにもなって、ずいぶんと困ったものだ」

棒給のあつかいに関して、小笠原はとくに岡村の厚い信認を得ていたようだ。
「三か月に一度、給与を運ぶのがまた連絡係の仕事でもあった。余人がやってはいかんというのが、岡村将軍の命令だ。
『こういう仕事は、中に入ったものが賄をとりがちなものだ。お前はそれと見こんで当番にしたんだから』
 で必ず奥さんの領収書を頂戴してくる。それを将軍は点検する。カネに恬淡であったあの大将軍が、そういうところはじつに細心厳正だった。中国側への領収書は将軍自らが書いてだされる。『こういうことに不明・過誤があったら、せっかくの誠意が水の泡になる』というのであった」

それまでアメリカ式の教育を受けた国府軍の将校たちにとって、初めて経験したのがこの戦史教育だった。かつての陸軍大学校では、この戦史教育はたいへん重要視されており、戦術について多くの時間が割かれていたといってもいい。
カルタゴとローマのカンネの戦いにはじまり、ナポレオン戦史、モルトケ戦史など有名なヨーロッパ戦史の講義は、彼らに新鮮な驚きを与えたという。曹士澂によれば、この戦史研究班にはしばしば蒋介石も出席して聴いていたという。
では、戦史教育の重要性とはなんなのだろうか。岩坪博秀は、その意義をつぎのように説明してくれた。
「戦史を学ぶことは、そのまま戦術の研究になるんです。つまり、どんな状況で、どのくらい兵力があり、どういう戦法をとったかを知ることができる。だから、戦術の原則は戦史から抽出されるのです」

結果はどうなったかというと、楊敬賦のいう通りになりましたよ。演習が終わったあとに、甲論乙駁論議で石牌が沸きあがっていましたが、あまり頭のよいのが揃っていると、まとまりに欠けるということで結論がでたようです」

大陸から撤退してきた蒋介石にとって、負けぐせのついた軍隊の再建はたしかに急務であったろう。だが、その軍隊をいくら日本式教育で鍛え直したところで兵士たちは老いていくものだから、新たに若い兵士を集めるための兵役システムを確立しなければならないことも、また同じように必要だった。広大な土地と膨大な数の人間、しかも軍閥が群雄割拠する情勢の大陸では兵役制度を整備することなど考えられなかった蒋介石であったが、ほぼ九州と同じ広さの土地、およそ800万人(1949、50年当時)の台湾にあってはじめて、その整備を実現しようとしたのであろう。そして軍隊の再訓練や教育と同じように、動員問題についても白団の力を頼み、日本のシステムを導入していったのである。

ところが困ったのは、実際に組織を機能させるためには、その基本となる「軍隊動員計画令」というものが必要だったが、それがないのである。ところが不思議なもので、台湾側がいうには、国防部にそういうものがあるというのだ。さっそく取り寄せてみると、中国語に訳されてはいたが、たしかに日本軍の「軍隊動員計画令」だったという。事情を聞くと、昔北支方面で日本軍から鹵獲したものだということであった。
「山下君は『人間万事塞翁が馬、日本軍ではこれをとられて処罰騒動もあったようだが、中国にはこれを運用できる人がいない』といって笑っていました。ただこれがあったから、われわれの仕事がスムーズにいったんです。これがなかったらあの短期間で日本のようにやれといっても無理だったんです」

「昭和二十九年の二月に、国防部春季動員演習というのをやったんです。湖口かた台北周辺に分散配置されていた第三十二師を二倍にして第百三十二師を編成する演習でした。すでに動員幹部訓練班が機能しはじめていて、ある程度動員業務を実施することができるようになっていました。それで、この演習には兵役に関係ない人間にも召集令状が出されて、測検演習が実施されることになったんです。
そうしたところ、召集令状をもらった人々を大勢の親戚縁者らが、幟をたてて赤だすきをかけて見送る行列が台湾市街の方々であったんです。しかもみんなが「勝ってくるぞと勇ましく」という、例の日本の軍歌を歌いながら駅まで行進していくわけです。向こうにはそんなときに軍歌がないんで「勝ってくるぞと勇ましく」をやってるんでしょうけど、こっちは驚きましたよ。あとで聞いたら、駅では家族が泣いて別れを惜しんでいたらしい。演習なんだからそんなのおかしいんですが、彼らにしてみたら、中国の軍隊にいっぺんとられたらもう帰してくれないと思っていたのかもしれない。ニ・ニ八事件の影響も癒えていない頃ですから、民間人と軍隊の関係はそんな状況だったんです」
大橋策朗は、述懐する。

BAMBOO BLADE 主題歌 BAMBOO BEAT
「ほんのまばたきの瞬間に叶えるよ夢のSTORY 儚くて遠くても諦めないわいつも 私だけのBAMBOOBEATを鳴らして♪」