破産者たちの中世

破産者たちの中世 桜井英治 山川出版社(2005/08)
お目ものーと

禅能と山門とのあいだには義持時代以来の深い確執があった。北野社の門前である西京には、北野社に属して麹製造業にたずさわっていた西京神人とよばれる人びとが居住していた。彼らは北野社の保護のもとで以前から営業税免除の特権を認められていたが、義持時代になると、義持と禅能との親密な関係を頼んで、京都における麹業の独占を企てるようになった。当時は西京神人以外にも麹業を営む者は大勢いた。とくに京都の酒屋・土倉はそれぞれに麹室をもち、酒造に必要な麹を自給する者が多かったが、応永二十六(一四一九)年九月、西京神人の訴えをうけた義持は、京都の酒屋・土倉が麹室を設けることを禁止し、西京神人による麹業の独占を認めたのである(『北野天満宮史料 古文書』七号)。この年の九月から十一月にかけて京都の酒屋・土倉が麹製造の放棄を誓って提出した請文が現在五二通残されており(同一〇〜六一号)、それらによって、このとき京都中の酒屋・土倉で徹底的な麹室の破却がおこなわれたことがわかっている。

永享十二(一四四〇)年ごろには義教に取り入って幕府に東大寺びいきの政策をとらせたとして、東大寺と対立する興福寺の恨みを買った。嘉吉元(一四四一)年六月にも見賢は義教にねだって仁和寺越前国河北荘代官職に任じられたりもしているが(同、同月十九日条)、その直後の六月二十四日に嘉吉の変がおきて義教は殺害されてしまう。
そのとき京都にいた見賢は、身の危険を感じたのか、翌二十五日に京都を離れて南都に下ったが(『大乗院日記目録』同日条)、南都でも彼に恨みをいだく興福寺勢がてぐすねひいて待ちうけていた。同二十九日、興福寺勢は東大寺を攻撃し、その結果、見賢の主人である東大寺別当公顕は逃走、見賢も行方不明となった(同、同日条)。興福寺勢は見賢の住坊を焼き払ったうえ、見賢が奈良中諸所に預けていた財産を捜索、没収したが、その額は銭一万四四二五貫文、米が二〇〇〇石におよんだという(同、七月十日条)。見賢はさらに京都や坂本にも十余万貫、現在の金額にして一〇〇億円以上の財産を預けられていたといわれるが、以下に紹介する管領細川持之の発言などをみると、これもあながち誇張とはいいきれない。

たびかさなる徳政令の利用が債権者との信頼関係を著しくそこねるものであったことは疑いない。一五世紀末になると、返済期限一、二年以内で、しかも当初から担保地の年貢を返済することを約した短期借入れが主流となるが、悪名高い松梅院が資金を借り入れるにはもはやそのような手段以外ありえなかったのだろう。

生徒会の一存9話 今回の生徒会は読書、ということで「会長は、なに読むんですか?」と会長さんに聞く杉崎。会長さん「もちろん、これよ!!」と『あかずきんちゃん』を出す。杉崎「いや?胸をはってだされても?・・・」会長さん「お子ちゃまだな〜杉崎は。大人になると一周回ってやっぱり絵本に帰ってくるんだよ、そうゆうもんなんだよ、大人って」えへんな会長さん。