「読書余論」№52

兵頭二十八net私塾「読書余論」2010−10月期 №52
目次--------------------------------------------------------------------------------
▼佐藤鋼次郎『日露戦争秘史 旅順を落すまで』大13-5
田村がいたから閥は消えていた。田村が死んで閥は復活した。
兒玉すら田村より軍事は知らない(pp.58-9)。

▼おまけメモ。
国民党とスタ。
孫文コミンテルンに援助要請。
1924、スタは中共をさしおいて国民党支援を明確化。
1925、孫文死んで、モスクワ陸大出の蒋介石は1927、共産主義者を追放する(林『両大戦間の世界』)。北伐後、北京のソ連大使館等にガサ入れ。1927の蘇支断交に至る。

▼『落合博満の超野球学(1)』2003-6

▼『落合博満の超野球学(2)』2004-4
 草野球の投手がまず覚えるべきこと。じぶんの左側(1〜2塁間)にゴロを打たれたら、すぐに1塁ベースカバーに走ること。

▼井上司朗『証言・戦時文壇史』1984-6
戦前の右翼の資金源は、第一に陸軍、ついで海軍、ついで官界の内務省の警察系、つぎに財閥(これはみかじめ料的なもの)だった。軍や警察は、右翼にカネをやって大いに利用したのだ。それゆえ、戦後、軍と内務省が消滅したことで、右翼は大打撃を蒙り、その勢力には昔の面影がないのである(p.20)。

中央公論東洋経済は、戦中、発行後2週間くらいで、重慶で全訳されて、情報分析に使われていた。だから井上は、この2誌は廃刊させるよりむしろ宣伝に使えと言った。

大観は、陸海軍へ飛行機や建艦費を何度も寄付したので、戦犯になるのではないかと恐れていた。
これを一瞬、国士のおもかげの退潮、と思ってしまったが、そうではなく、変化におどろく純粋さなのだと、心いたく思い返した。

大仏の実兄は、野尻抱影早大卒で、星の文学者。日本郵船の支店長だった父は、大仏次郎には外交官になることを望んでいた。本人も大学を出るまではそのつもりだった。
しかし兄の知り合いの編集者から「髷物を書ける人はいないか」と聞かれて、自分で応じたことから、運命が変わった。それが『鞍馬天狗』。
大正末期から昭和初期にかけて、失業インテリが求める社会正義を、剣の超人に代行させた。大衆小説を、一挙に文藝小説のレベルに引き上げた。

▼W・ゲルダート『イギリス法原理・第8版』

▼Arthur.H.Crow著、岡田・武田共訳『クロウ日本内陸紀行』S59-7、原1883
軍楽隊はひどい練度であった。巡回動物園の音楽かと思った。

日本の農業はまさに園芸だ(p.53)。

日本人は就寝中も目を醒ますとキセルで一服する。だから旅館では雁首を叩くおとが一晩中する。

日本の誤りは、働き者たちの仕事を遅らせ、交渉事の回転を妨げようとするばかりの怠惰な役人をふやしすぎたこと。

電信線の架設工事はすでに日本人だけでやっていた。

サムライは最初の一太刀は、抜きざまに上に斬る。初期の英国海軍士官たちは、暗殺から自衛するために、サムライの態度にほんの少しでも敵意が見えたらピストルをかまえるように、いつも言い聞かされていた(pp.210-11)。

8-29、函館港の弁天岬砲台は土の要塞だ。
地形はジブラルタルにいちじるしく似ている。
米国の帆船が、サンフランシスコ向けの硫黄を搭載していた。
この硫黄は岩雄登、跡佐登、恵山、知床、クナシリのシュマノボリ、ラウス山、エトロフのモヨロ、などで採掘されたものである。

ラッコは数がすくなく、獲るのがむずかしい。ウルップ島とエトロフ島に多かったという。その大市場はロンドン。

▼ホフスタッター& デネットe d . 、坂本百大・他t r . 『新装版 マインズ・アイ(上)』1992、原1981

遺伝子は、体から体へと世代ごとに飛び移り、自分のやり方と目的に応じてそれらの体を操りながら、それらの体が老衰や死に陥る前に、次々に死すべき古い体を捨てて生き延びていくのである。※天皇制みたいなもん。

▼東江平之・他ed.『大田昌秀教授退官記念論文集 沖縄を考える』1990

▼丸山静雄『中野学校』S23-4

▼諸岡青人&里深文彦『民具の文化史』1996

▼『倫理学 第7冊』S16-7所収、尾高朝雄「国家哲学」

啓蒙時代には、まず個人主義的に自然法が説かれた。
すなわち、啓蒙期個人主義。近代の初期に、個我の自由を最高理念として掲げた。
人は生まれながらにして自由であると主張された。
ここから国家契約を仮説し、自由と拘束との矛盾を原理的に解決する。
専制主義さえやっつけてしまえば、人々は現実に自由になるのではないかと想像された。
ところがフランス革命の結果は惨憺たる血の海であった。
ここにカント登場。
カントいわく。人間は現実には自由ではあり得ない。道徳の空想においてのみ自由なのだ。その調整役が国家である、と。
国家の決めた義務・法に、個人の行為が「外面的」に適っていれば、OK。それはモラルはなくとも、リーガルだ。
すなわち、法的強制によって、道徳的自由への道が拓かれる。
カントの次のフィヒテは『封鎖商業国家論』をあらわした。1800刊行。説かれたのは、計画統制経済国家。芸術家と学者以外は、海外旅行も禁止。このような国家だけになれば、拡張戦争もなくなるだろう、というわけ。

▼『岩波講座 世界思潮1』1929所収、矢崎美盛「啓蒙思潮」

▼南原茂『国家と宗教』S17-11、S21-1repr.
カントの「断言命令」。汝の意志の格率が同時に普遍的立法の原理として妥当し得るように行為せよ。
自然の人間は神聖ではない。しかし、人格としての人間は神聖だぞ。

中村光夫『近代への疑惑』S22-7
欧米人にとり、近代とは自作品である。東洋人にとり、近代とは輸入品である。
今年は特に海水浴が盛んであったそうだ。維新の開国からわずか80年で、女子が水着で砂浜を闊歩するようになった。西洋で〈これが当然だ〉と思われるまでに5世紀かかった生活全般の根本的変化を、80年で成就させている、この変化の急激さこそが、日本の近代の一特徴だ。

以上、『文學界』S17-7月号初出。S22-2の後記にいわく。「近代への疑惑」は、文学界が「近代の超克」という座談会をやったときに、提出論文のひとつとして書いた。この程度の常識を公刊するのにも、政府の統制に気兼ねして苦労する必要のある時代だった。常識を常識として世に通用させる仕事に精力を奪われて、あたらしいものを作り出す余力などなかったのが、あの時勢を悪い時勢とする所以である。

フランス自然主義は、極限まで社会化されていたのだ。それを模倣しながら、身辺小説や、心境小説になってしまったのだから呆れる。※社会に何も問題提起をしていないということ。

日本社会に個人主義が普及すれば、私小説作家どもの実生活が読者を動かすはずもなくなる。つまり私小説は御用済みとなる。

旧社会の良識を逃れたとき、人間とは何物であるかが自問される。近代文学也。
自然主義は、ロマン派とは違い、社会を支配する良識の根深さを意識したにすぎない。
『マダム・ボヴァリイ』は、フロオベルと社会の対決の場所に外ならない。
江戸文学の伝統の重圧が、二葉亭をして、浮雲を中断させ、彼を文学の圏外に投げ出した。
そしてしばらくは、鴎外を除けば、明治文学は封建文学の復活でしかない。
西鶴も三馬も、江戸文学は、女子供からすら理解された。超一流の芸術なのに、社会と完全に調和していたのだ。社会と個人の対立がまったくありえない時代の芸術。その完成品に耽溺して育った明治前半の文人には、フランス流自然主義はとうてい理解などできもしなかった。
江戸時代、人間の情熱は、木偶によって表現され得た。江戸期の人間とは、肉体を供えた木偶にすぎなかったからだ。
江戸文学が新しい権力者を嘲笑するときは、彼らの洗練された趣味に反するときだった。

硯友社の空疎をきわめた類型的作品群。社会が、それを欲したのだ。文学と社会は明治においても調和していた。かかるとき、文学は人間を描く必要を認めないのだ。

日本に私小説が誕生すると、しだいに、文学と社会の素朴な調和は壊れた。個室趣味文学、ひきこもらー文学が萌芽した。
わが国の近代文学は、社会との対決の裡にではなく、隔離の裡に成長した。その非社会性、無思想性は、すべてここにもとづく。

異様な時代に生きる異様な姿を捕えることに失敗する作家など一人もいない。

40を過ぎてフランスに渡り、数年パリに滞在して新しいものを探した島崎藤村は、ついに西洋文明には新しさよりもむしろ鞏固な伝統があることを発見した。彼はその発見を執拗に書いている。たとえば『新生』。
そして『夜明け前』では、開花の風潮の一犠牲者を主人公にした。
以上、S16-10の『知性』初出。

明治は、最初の30年は、まだ近代社会ではなかった。江戸時代の延長だった。佐藤春夫いわく、新しい社会のなかで、人々は封建時代の生活を営んでいたのだ。
藤村は告白している。若いころに芭蕉の求めたものを求めようと思い、どんどんさかのぼって古い歌集や詩集を読むようになり、25歳までは、古人の足跡をひたすら追いかけた、と。
そこで確信した。古いものはいらなくなれば自然に壊れる。意図して破壊する必要はないのだ。
以上、S12-8『俳句研究』初出。

岸田國士が昨年の春の随筆で書いている。人が寄ればかならず戦争の話になる。だが、案外、おたがいに人の知らないことをしっているのに驚く、と。

▼Barry Plyner『デザインは犯罪を防ぐ』1991訳刊、原1983

▼近藤康雄、梶井功『日本漁村の過剰人口』1956

▼木村正一『土幕民の生活・衛生』S17-8

松山義雄『山村動物誌』S18-7

▼教学局ed.『教学叢書 第10輯』S16-4

▼アナンダ・クーマラスワミ著、蘇武&岩崎tr.『印度美術史』大5-9
紙は、A.D.10世紀まで、インドには無かった。※だからインド仏典にはそもそもオリジナルがあり得ない。

▼石川順『中國苗族考』大12-1

▼スミス&クリスチャン著、鈴木他tr.『パンと塩――ロシア食生活の社会経済史』1999、原1984

▼防研戦史部『戦史研究年報 第5号』H14-3-31
湾岸のときは3日以内にバクダッドの発電所を吹っ飛ばしたが、コソヴォでは、最後の2週間になって、発電所を攻撃した。つまり開始から4週間目。つごう79日目に停戦。

コソヴォの教訓は、エアレイドは逐次投入すべからず、ということ。
目的が判明していないのに漫然と飛行機を送り出し、「何か手を打っている」外見を示そうとする政治は間違いである。

▼竹村文祥『戦争と医学』S16-6
※他にも病死データてんこもり。

▼松野博『満洲国開拓と北海道農業』S16
ガラス窓なくして、北海道入植は不可能だった。
しかし、燃料木が無尽蔵にあったおかげで、ペチカ+煉瓦造りでなくとも、ストーブだけで冬を凌ぐことが出来た。

▼吉岡金市『日本農業の機械化』S14-4

▼吉岡金市『農業機械化の基本問題』S16-1
岡山県では、耕耘機はむしろ、小作地60%以上の「自小作」農家に普及している。これは、小作条件が小作者に有利になっているから、「富農小作」化しているのである。※GHQが「解放」する必要などまるでなかったわけ。

▼吉岡金市『農業機械化圖説』S18-3
ところがS16秋に石油の消費統制が強まって、暗雲が……。
そこでしかたなく、耕耘機を路面電車式に電気化することまで試みられた。
統制経済さえなければ、日本は民間から機械化していたのだ。愚かな能吏帝国が、その目を潰してしまった。

▼尾高豊作『都市と農村』S17-10
耕耘機は、馬の2〜5倍、人の12〜25倍の能率である。
反当たりの経費も、馬の6〜8割、人の2〜4割で済む。※人より馬が高価。

田植えと稲刈りが、最後に残っている。※田植え機は日本のロボット史上で忘れてはならぬアイテムである。だれか詳しい人はいないか?

▼菅原亀五郎『理想郷の建設者と百姓太閤』S5-8、兵用図書(株)pub.

▼玉城 哲『水紀行――むらを訪ねて』S56
今は農業用水は地下パイプライン化し、蛇口を捻れば冠水する。
ここ十数年来の「圃場整備事業」で、それができた。
これがまた、兼業化を可能にし、また、水のムダ使いに。

▼ブラハト&ブルクハルト著、日本写真測量学会tr.『写真測量の歴史』S63

▼佐久間律堂・著『戊辰白河口戦争記』S16-9
官軍は、砲声を聞くや、寝床から直行する。後から握り飯を持ってこさせるのだ。対して奥羽勢は、宿舎主人に飯を炊かせ、十分腹を拵え、握飯をもって出かけようとするから、出遅ればかり(p.72)。

▼『野戦重砲兵第十二連隊史』H6

▼『わかりやすい真菌(かび)検査法と汚染防止対策』1988

▼J・W・ディーコン『現代真菌学入門』tr.S57

▼『微生物の生態 9』1981

▼マンゴールド&ゴールドバーグ著、上野元美tr.『細菌戦争の世紀』2000、原1999“PlagueWars”

▼宮治誠『カビと病気』1986
 米軍はWWII中に、コクシジオイデス防疫を国家的に進めてきた。
 地域を芝生か舗装かプールにすると、発生率は激減する。

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