焼畑雑考Ⅱ

焼畑雑考Ⅱ 松本繁樹 静岡新聞社(2008/07)
目次--------------------------------------------------------------------------------
はじめに

1章 日本人にとっての主食とは? −銀めし願望−
主食と穀物     「主食」とは何か−さまざまな地域でのさまざまな主食−     オーストラリアでの食事体験     雑穀とは何か     銀めし願望と雑穀     米の配給制度と米の需給     第2次大戦後の食糧難とその後の減反政策     近藤弘氏の「米食係数」     食事エネルギー量(供給栄養量)におけるでんぷん質食糧の比率     雑穀めしの思い出−コウリャンめし−



第2章 定畑型の作物としての麦と麦めし
明治初期の日本の食糧事情     定畑型の作物ちしての麦     麦めしの思い出     裏作として栽培された麦



第3章 焼畑とソバ−そば米粥からそば切りへ−
焼畑基幹作物としてのソバ     焼畑作物としてのソバの優位性     粒食と粉食−そば米粥からそば切りへ−     そば切りと麺文化     粉食と製粉



第4章 焼畑とヒエ−ヒエめし−
ヒエの長所と泣き所     ヒエめしとヒエの精白     旧大川村でのヒエの調整法     北上山地でのヒエ栽培     九州山地焼畑村−椎葉と西米良−     椎葉の「稗搗き節」     西米良の「木おろし唄」     焼畑作物としてのシコクビエ



第5章 焼畑とイモ−薯・藷・芋−
日本で「イモ」とは?     ジャガイモとサツマイモ     サツマイモの長所と短所−人口支持力が最も大きい作物−     オセアニアのサツマイモはどこから?     サモア人の主食と体型     ヤムイモとタロイモヤマトイモサトイモ)     栄養繁殖     日本の焼畑サトイモ     照葉樹林文化と焼畑     日本人の味覚における嗜好性



第6章 焼畑と換金作物Ⅰ−竜爪山内の毒荏桐・三椏−
毒荏桐と楮・三椏     元禄の秣場・焼畑      明和の秣場争論と毒荏桐の植え立て     天保の秣場争論と三椏栽培から茶・みかん栽培へ



第7章 焼畑と換金作物Ⅱ−伊豆の「成金豆」・キヌサヤ豌豆−
キヌサヤ豌豆の焼畑栽培の始まり     伊豆の「成金豆」・「すり金豆」     キヌサヤ豌豆と連作障害     火入れにおける「パッチ焼き」     東京青物市場の独占と衰退

                                                                                                                                                              • -

日本では徳川中期以後、享保天明天保と悲惨な飢饉が頻発したが、宮本常一氏によると、「これらの飢饉は、日本の農業が、米作1本に変わってきたことによって起こったもの」であって、「当時、最も悲惨な被害をだいしたのは、津軽、秋田、山形など日本海側の平坦な米作地帯であったが、いっぽう、そこから山を越えた北上山地側のヒエ作地帯では、ヒエの出来は7・8分作であって、必ずしも悪いものではなく、飢饉まではいたっていない」

なお当時は、イモばかりでなく、葉や茎・蔓も油炒めにして食べたものである。イモの葉を餌とする大型のカタツムリが群がっていた。それは、日本のカタツムリとは形も大きさも異なっていて、タニシ(田螺)やツブガイ(螺貝)をさらに大型にしたような形とでも言えようか。かれらの食欲はきわめて旺盛で、夜間イモ畑のそばを通ると、イモの葉を食うザワザワという音が聞きとれるほどであった。したがってサツマイモにとっては、かれらは大変な害虫(敵)であった。当時、私の父が校長を勤めていた学校の校舎には、陸軍の兵隊さんたちが大勢駐屯していた。父が兵隊さんたちに、何かの拍子に「フランス人はカタツムリを食べる」と話したところ、翌日以降、近隣のイモ畑から、カタツムリが忽然と消えてしまったのである。私も何度か兵隊さんたちから、焚き木で焼き、醤油を付けた「焼きカタツムリ」を食べさせられたのであるが、その味についてはもうほとんど記憶に残っていない。
なおサツマイモと焼畑との関係では、焼畑での栽培はそれほど多いものではなかった。しかしヒエ、アワ、キビなどに比べると台風など風雨の害に強いこと、雑草の侵入が少ないこと、野鳥の被害が少ないことなどのため、焼畑にとってはかなり都合のよい作物であった。ただその栽培が比較的温暖地に限られるため、九州山地で比較的多かったものの、それ以外の地域では少なかった。

ムギ類も、ヨーロッパでは連作のきかない作物とされてきた。もともとヨーロッパでは、地味が痩せ、雨量少なく低温で、穀物栽培には不向きな土地が広かったからではあるが、こういった土地に1回麦を作ると、次の2年間は土地を休ませねばならなかった。その間、その休閑地には、羊・ヤギといった反芻型の家畜が放牧された。かれらは、そこに生える粗末な草でも生存できたからである。12〜13世紀以降になると、それが「三圃式」農業といわれるものに発展していく。それは農地を3等分し、その一つには冬作としての小麦を栽培し、もう一つは夏作としての大麦を栽培、残りの一つは休閑地として家畜を放牧し、それら三つを順送りに3年間で循環させるものであった。ヨーロッパでは現在でも、農地のかなりの部分は、こういった輪作体系の中での「休閑の意を込めた牧場・牧草地」、として利用されているのである。この点、アジア、とりわけモンスーン・アジアの水田地帯での、連作の続く水田とはきわめて対照的である。後者では、休閑の方が難しく、いったん休閑すると、いっきょに荒廃して、水田としての復旧は非常に困難となる。このように、稲の場合は、毎年同じ水田に栽培しても、しかも熱帯や亜熱帯地方にあっては、1年に2回も3回も作付けされる、2毛作、3毛作田であっても、連作障害がほとんど起こらないのである。

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