毛沢東のベトナム戦争―中国外交の大転換と文化大革命の起源
毛沢東のベトナム戦争―中国外交の大転換と文化大革命の起源 朱建栄 東京大学出版会(2001/06)
目次
プロローグ
第1章 前史(1949−63年)
1 「蜜月」時代の中越関係
両国関係の歴史的特徴 新中国樹立で転機を迎えたベトナム革命 ディエン・ビエン・フーとジュネーブ会議 中越関係の「時限爆弾」 「蜜月」時代の始まり 冷たい視線を向けられたソ連 白龍尾島帰属問題 水面下で進む意見相違 中国指導部内に慎重論も 63年の方針転換 中越関係の伝統的構図は変化したか2 新中国外交の脈略
外交方針の形成 対ソ「一辺倒」の意味 国益重視外交の形成 理想主義外交の台頭 中ソ論争の表面化 決裂に踏み切れない理由 困難な外交情勢 「マルクス主義発展史上の三回目の大論戦」 中ソ論争、ピークに 決断迫られる毛沢東3 軍事戦略の変遷
独特な軍事戦略 建国初期の防衛構想 米国の「三方向侵攻計画」 「積極的防御」戦略 中国型建軍原則の確立 インド軍を追い討ちしなかった理由 対ソ戦略調整の前兆4 国内政治の歩み
「新民主主義」体制からの船出 朝鮮戦争で既定路線は大幅変更 相次ぐ政治運動 「正しい個人崇拝」 「階級闘争を忘れるな」 社会主義教育運動 中ソ論争の国内影響 対外批判による「自律化」現象第2章 毛沢東の決断(1964年6−7月)
1 十三陵ダム会議
第3次五ヵ年計画と中央工作会議 毛沢東の重要演説 後継者の5条件 ソ連はもはや当てにならない 軍事戦略転換の起点 インドシナ戦争激化の前兆 曲がり角にきた中ソ対立 国内政治闘争の強化2 西側との関係打開への熱い視線
インドシナ戦争は当面拡大しない? 穴があいた中国包囲網 ブレジンスキー論文 毛沢東の思考様式 三カ国共産党会議 ハイバイチョンに花輪を捧げた周恩来3 「小型」の文化大革命
『人民日報』を批判する 「五人小組」の設立 「小文革」の始まり 文化芸術界の批判と京劇革命の意義 文化関係の各領域に拡大された批判運動 文化革命の意図 ソ連との対決姿勢 日本社会党代表団との会見 「二つの中間地帯」論第3章 「トンキン湾事件」の衝撃(1964年8−9月)
1 事件への慌しい反応
狂った毛沢東の時刻表 「世紀的なでっちあげ事件」 シーボーンの伝言 中国からの複雑なメッセージ 中国軍の慌しい動き 毛沢東とレ・ズアン会談の示した情勢判断2 「三線建設」の決定
緩和された緊張 総参謀部の報告書 事件直後の毛沢東指示 「大三線」の重要度 三線建設指導チームの設置 毛沢東の意図 「早まる戦争に立脚せよ」3 二つの統一戦線
ソ連のベトナム支援を促す モスクワの反応にいらだつハノイ 中ソ国境交渉の決裂 訒小平の話法 「二つの統一戦線」戦略の形成 内外修正主義との闘争続行 毛沢東が放った「空砲」 中国を敵視しつづける米国第4章 失われた中ソ修復のラストチャンス(1964年10月−65年1月)
1 フルシチョフ退陣
毛沢東の二重の喜び 対ソ批判中止の決定 熱烈な祝電 対ソ修復の大攻勢 核実験の成功から生まれた自信 「ソ連が変わるかもしれない」 マリノフスキー事件 三回の首脳会談2 劉少奇追放の決意
ホーチミンの三点意見 流動的なベトナム情勢 米偵察機の撃墜 「小三線」も強化せよ 決定的になった対ソ不信感 国内政治闘争の緊迫感 両首脳の初めての激突 二人の対立点 巻き返しを図った毛沢東 「二三ヵ条」の政治的意味 劉少奇の謝罪3 スノーに託したメッセージ
第三回全国人民代表大会 「フルシチョフなきフルシチョフ主義」への批判 「新しい国連を作れ」 理想主義外交の裏に隠された計算 反国連よりも反米 スノーとの談話 「米国の人民によろしく」 なぜスノーが選ばれたのか第5章 「北爆」の波紋(1965年2月)
1 コスイギンの来訪
「小計委」の設置 「フレーミング・ダートⅠ」作戦 戦争拡大の判断に至る 激しい抗議行動 冷遇されたコスイギンの1回目の北京訪問 ソ連と北ベトナムの急接近 対ソ論争を支持していたハノイ 対中ソの小国外交の起点2 にわか作りの対ソ接近
北京報道機関の論調変化 中ソ首相会談の進展 毛沢東がソ連に送ったシグナル 公開論争中止の提案 「連ソ反米」のキャンペーン 対米批判の格上げ3 決裂に向かう中ソ関係
米ソ取引への懸念 交渉拒否への政策転換 中ソファクターと北爆 ワルシャワ米中会談 江青夫人、極秘に上海に向かう モスクワ会議の中止を迫る 開催前日にあきらめた説得工作 ハノイに急派されt周恩来第6章 ダブル・ショック(1965年3月)
1 モスクワ会議と北爆
「分裂会議」開催 社会主義陣営をもはや認めない ハノイの微妙な姿勢 「ローリング・サンダー」作戦 遅かった北京の反応 国内政治闘争の中止 モスクワのデモ衝突事件2 米海兵隊のダナン上陸
戦争のエスカレートで危機感 首脳部の情勢検討会議 中国式「歴史的分析法」 鏡となった朝鮮戦争 中国もエスカレーション戦略へ 「米ソ結託の中国侵略はないのか」 対米緊張の高揚 ソ連対策の検討 対米強硬姿勢に転じるソ連 中米ソ三角関係の変数3 最後の対米警告
八ヶ月ぶりのソ連全面批判 ハノイはソ連のミサイルを一時断った 「中国がソ連物資の輸送を妨害」 中国のシグナルをどう読むか 警戒されたテーラー大使の言動 パキスタン・ルートに託した最後の警告 朝鮮戦争介入直前と同じ対応第7章 緊急動員令(1965年4月前半)
1 米中間の空中衝突
「親米派」の毛沢東 本気で心配された米中戦争 米国の二つの誤算 ホワイトハウスの戦略会議 海南島上空の交戦 「侵入する米軍機を撃て」 中国側から見た米国の全面侵略計画2 レ・ズアンの秘密訪中
米国は偶発事件と表明 グエン・コ・タク元外相との対話 北京から見たソ連の援助 中越の外交方針協調 緊張するハノイ 中国軍派遣を決定した首脳会談3 北京とのモスクワを動かすハノイ
戦争準備強化の緊急指示 「地質勘査団」とハノイからの至急電報 レ・ズアンのモスクワ訪問 大使館での内部談話 中越対立の原点 中国の支援強化 ソ連に対する微妙な扱い第8章 米軍事戦略を読み直す(1965年4月後半−5月)
1 ホノルル軍事首脳会議
「南打北炸」戦略の形成 ワルシャワで再び探り合う米中 猛烈な対ソ批判の再開 1ヶ月前のレニングラード事件 選択を迫られるハノイ 羅瑞卿署名論文の意味 混乱を伴った調整期2 米中衝突は回避できる
北京で見られた米軍作戦重点の変化 大統領の性格的原因 毛沢東の情勢判断の変化の軌跡 注目された地球裏の動向 政治局首脳と作戦会議 「準備を整えれば敵は来ない」 「首絞め縄」戦略 米国にメッセージを送る大攻勢3 ホーチミンの訪中
初歩的な核抑止力を入手 核をバックにした新しい戦略調整 攻勢作戦を決めたハノイ ホーチミンの遺言 毛沢東との会見 二人の巨人の初めての口論 井崗山を上る毛沢東の真意第9章 中国軍、友誼関を渡る(1965年6月)
1 派兵の政策決定
中国軍の出動記念日 長年封印された歴史 複雑な政策決定過程 「一石二鳥」の支援部隊派遣 「中国後勤部隊」への名称変更 ベトナム支援の指導機関の設立 ヴァン・ティエン・ズン総参謀長の訪中2 「援越坑米」の全容と思惑
17度線付近まで行った中国支援部隊 米軍機を大量撃墜 ハノイ首都空港の建設協力 ラオスへの軍事的コミット カンボジアは解放戦線支援の中継基地に 中国の支援部隊派遣の総括 中国とソ連のベトナム援助総額の比較 戦争の行方を左右した中国の介入 「積極的防御」戦略と「局地戦争」観 中越国家戦略の異同3 対ソ批判・国内闘争の再開
ソ連の援助は対ソ批判を助ける? 彭真演説の重み 「妥協なし」の対ソ批判の再開 ソ連との闘争を「最後まで推し進めよう」 軍の階級制度廃止の決定 「盗聴事件」再調査報告書の不気味さ第10章 「二正面作戦」戦略(1965年7−8月)
1 ジョンソン政権の大増兵決定
第2回AA会議にかけた意気込み 理想主義外交の熱が冷めるきっかけ 国際舞台での中ソ両派の闘い 米軍の大増兵を冷ややかに見る 人民戦争の大海原 戦闘で勝って戦略で負ける米日 抑制的になる中国の反応 パイロット派遣の見直しを申し入れ2 中国軍の困惑
中国軍の動向は把握されていた 米側が「確認」をしなかった理由 ベトナム領に入った中国軍の内部規定 思わぬトラブルの発生 中越間摩擦が表面化した要因 デリケートな主権問題 ソ連人にも同様な態度を取ったハノイ 中国報道のトークダウン 対日働きかけの意味 李宗仁の帰国と対台湾の優位確立3 軍事戦略調整の本格的着手
十七文字の新しい軍事戦略 中核は「誘敵深入」 新軍事戦略に関する論述 歴史的な誤解に対する反省の声 広大な国土での人海戦術に依存 三段階の防御ライン 人海戦術で山を造成 毛沢東も気づいた戦略の欠陥 「全国移転工作会議」 大三線計画の総括 戦略調整背後の別のねらい第11章 「人民戦争の勝利万歳」(1965年9月)
1 「和平交渉の陰謀」をつぶそう
南ベトナム戦場の試練 米国との秘密交渉に一時応じた北ベトナム 「交渉はすなわち裏切り」 「遅すぎた交渉」 北京発の三つの重要メッセージ 林彪署名論文の内容 米国に恐れられた「世界農村」からの戦争 新しい軍事戦略の集大成 「それほど重大ではない」意義の側面2 実在しなかった「林彪・羅瑞卿論争」
中国現代史の謎の一つ 執筆グループ設立の経緯 「総参写作組」の活動 羅瑞卿・賀龍両署名論文の作成経緯 林彪署名論文の作成経緯 党中央が一元的に決定した諸論文 羅・林署名論文と本人の関係 羅瑞卿失脚は別の理由による 再び論争説を考える3 「名誉ある孤立」への道
林彪署名論文の問題点 「空砲」戦術の背後 第2印パ戦争への口先介入 インドへの最後通牒 中国の得点と失点 「中国が進めた米ソ間のハネムーン」 「北京はつまずいた?」 「名誉ある孤立」の始まり第12章 文化大革命の序曲(1965年10−12月)
1 中国外交の挫折
陳毅外相の記者会見 示唆に富む『朝日新聞』の社説 九・三〇事件の激震 AA会議のボイコット 指導部内の挫折感 雨降って米中接近の地が固まる?2 ベトナム戦争の行方と中ソ決裂
毛沢東の情勢判断 米国内のベトナム戦争シンドロームの起点 南ベトナムでの戦いを高く評価した毛沢東 ハノイの「親ソ路線」を批判 中越間の不協和音 ソ連を敵と見なした意味 ソ連も一年ぶりに論争を再開 「共同行動」を正式に拒否 モスクワとの絶縁 なぜソ連は米帝よりも危険か3 文化大革命の発動
日本共産党幹部に決意を語る 9月の布石 国内政治闘争の「総決算」に着手 毛沢東の決断をめぐる分析 姚文元論文をめぐる攻防 劉少奇らはどうして敗北したか 毛沢東・林彪の同盟結成 羅瑞卿の失脚は政治取引の犠牲 文革はこうして始まったエピローグ
ベトナムとの関係 ソ連との関係 米国との関係 軍事戦略 国内の政治・権力闘争 内政と外交との関係 中国外交の本質 90年代以降変化はあったか 21世紀への展望あとがき
年表
索引
65年10月、毛沢東は前述の外交挫折に関する外交部の報告書を江青に見せ、淡々と「これでAA諸国の当面の情勢を理解できる」と書き残している(22)『建国以来毛沢東文稿』第11巻、468頁。。中国外交が挫折したというのは劉少奇らを含めた指導者の一般的な見方だが、毛沢東本人は必ずしもそのように考えていない。彼の外交にもともと両輪があって、理想主義的側面が一時後退したからといって、すべて失敗したということにはならない。特に毛沢東の最大の関心は別のところにあった。それは第一、米国をベトナム戦争の泥沼に引きずり込み、米軍の脅威を中国向けに集中できないようにすることだ。アジア・アフリカ・ラテンアメリカ地域全般で米国に「首絞め縄」をかけられれば一番よいが、それが一時的に後退しても、すでに十数万人の米軍をくぎづけにしたベトナム戦争と比べれば、副次的な問題になる。第二、それは米国や他の国の軍隊ないし米ソ共同でいくつか中国に大規模な侵略をかけてくることに備える防衛体制を整えることだ。中国の軍事戦略の調整、大三線建設などは着々と進められている。第三は国内の政治闘争だ。これについて毛沢東はいよいよ最大のエネルギーを集中しはじめていた。上述の三つの角度から見れば、毛沢東には敗北感がなく、そのため、彼の既定の戦略と戦術は続行されていったのである。
そしてベトナム戦争の戦況は、毛沢東が予見した方向に向かっていた。9月11日から17日までの1週間、北ベトナムに出動した爆撃機と投下した弾薬量はいずれも最高記録を作り、次の週はさらに記録を更新した。爆撃の目標もハノイから中国に向かう道路と鉄道、およびタイグエンなどの工業基地だが、中国防空軍が主にこれらの交通戦や施設の回りに配備されていることを考えれば、空爆が中国軍の殺傷を狙ったのは明らかだ。しかし北ベトナム自身の軍民による空爆対策が軌道に乗り、何よりも、中国の高射砲部隊とソ連のミサイル部隊は空爆の米軍機を封じる砲火網を形成しはじめた。それにより、撃墜される米軍機が急増した。米側の発表でも、9月20日の北爆だけで8機の空軍機を失い、10月17日のタイグエンに対する集中爆撃で再び3機の軍用機が撃墜された。11月に入って中国防空軍はさらに西側の軍事常識では考えられない対空作戦の戦法を見せつけた。16日の戦闘では、地上レーダーが発する電波を探知してそれを妨害しながら追跡攻撃をかける米軍機に対し、中国高射砲第63支隊は、敵機が上空に飛来し攻撃態勢に入った(防空軍側にとって最も危険な)瞬間に、レーダーを作動させ対空砲火を浴びせるという「近接戦」によって米軍機を多数撃墜し、米軍パイロットの度肝を抜いた(23)曲愛国論文、『中国与印度支那戦争』94頁。。
9月末以降、南ベトナムでの解放戦線側の戦術も修正された。性急な大規模な部隊集結による攻撃から柔軟で敏捷な作戦へ重点がシフトし、米軍の長所を避け、自分の長所を生かす戦闘を活発化した。レ・ズアン書記長も「北爆が開始されたはじめのうちは対応に苦慮した」が、いま「効果的な反撃の仕方が分かった」と数ヶ月後話している(24)『日中両党会談始末記』55頁。
劇場版銀魂 新訳紅桜編−予告CM 高杉「おれはただ壊すだけだ、この腐った世界を」 桂さん「いつからたがった、俺たちの道は」
この本をもとに劇場版作ったらいいのに。銀さーん!!
タイトルは、なんとかの憂鬱・なんとかの憂鬱、でいいんじゃない? 大事なことなので二回言いましたわ。