東京大空襲―B29から見た三月十日の真実

東京大空襲―B29から見た三月十日の真実 光人社 (2001/02) E.バートレット・カー(著),大谷勲(翻訳)
目次

はじめに
東京 1945 3月10日

第1章 新兵器開発
Ⅰ 焼夷弾M69
Ⅱ 戦略爆撃機B29

第2章 戦略暗号「マッターホーン」
Ⅰ インドへの道
Ⅱ 迎撃
Ⅲ 成都発進

第3章 マリアナ発進
Ⅰ 烈風
Ⅱ 解任
Ⅲ 模索

第4章 東京大空爆
Ⅰ 前夜
Ⅱ 敢行
Ⅲ 地獄

年表―本書に関する主な出来事
訳者あとがき

「ランプ・クイーン」をあとにしながらパティロは一日もはやく訓練に入りたいと願ったが、B29はまだ一機しかなく、しかもこのように整備に長い日時を費やしている状況を考えると、その日が訪れるのはまだ先のことだと感じた。
操縦士をはじめ他の乗務員もまたそれぞれ専門訓練を受けるため、つぎつぎと基地にはいってきた。B29は航空機関士を必要とする最初の戦闘爆撃機だったので、航空機関士は操縦訓練をうけると同時に、構造技術課程も学ぶことになった。また上部前方射手はこれまでまったく未知の中央発射制御装置に、ほかの射手も火器操作ばかりかエンジンや電気系統の整備にとそれぞれがあらたな任務への挑戦を命じられたのである。そして、AAFは最終的にB29一機につきこのよな乗組員を二チームずつ、言いかえると定員の倍数を訓練し育てることになる。これは長距離・長時間航行にともなう負担が、やがて乗組員の肩に重くのしかかるという予測に基づく判断だった。

B29がこの空爆で発見したものは、今日では一般に「ジェット気流」と呼ばれている烈風である。シベリアの北で生まれるこのきわめて幅の狭い大気の流れは、高度三万フィートから四万フィートの空間を時速五百マイル(8000キロメートル、風速約222.2メートル/秒)で北半球をふきめぐっている。日本人もふくめて誰もこの烈風にとくべつな関心をいだいた者は、空爆がおこなわれるまでは恐らくいなかっただろう。もしかしたら一部の日本人は気象観測気球をとおして、ジェット気流の存在に気づいていたかもしれないが、そうだとしてもそのような知識はなんの実用的価値も持たなかったはずだ。なぜなら日本のはそんな高さを飛べる飛行機はほとんどなかったし、ジェット気流が地表気象におよぼす影響などということは、当時はまだ理解とはほど遠いところにあったからである。

目視照準にもかかわらず的中率が上がらなかったのは、敵戦闘機の迎撃が激しかったためであった。またB29十二機を損失、損傷機も二十九機にのぼった。

ミッチェナー提督が指揮する海軍第五十八空母機動部隊はすでに日本領海内に侵入し、雪まじりの疾風が吹きすさぶ16日、艦載機による執拗な東京爆撃を開始した。敵側航空戦力を叩きつぶすためである。結局、この猛撃で敵戦闘機340機を撃墜、地上にあった190機を破壊した。過去にB29が撃ちおとした戦闘機数をこれに加算すると、破壊させたとは言えないまでも、その航空戦力をいまや瓦解寸前まで追いつめたのは確かだった。日本軍側は地上にある飛行機を移動させるにしても、もはやその任務につける操縦士がいなかったのである。

アーノルドはまず、ウィチタ以外の二工場でも最低一千機は生産されるだろうから、B29の総生産台数を二千機と規定している。その上で「日本本土を空爆するのにいつまでも1回につき六、八十機しか使えないんだとしたら、運営方法をどうにか考え直す必要がある。海軍のニミッツ提督や陸軍のマッカーサー将軍が自分たちもB29部隊をもつ権利があると言いだしたなら、われわれ第二十航空軍をはるかに超える大規模部隊を、たちまち結成してしまうにちがいない。・・・日本を叩きつぶすのに、三、四百機というB29がなぜ一度に使えないのか、その理由についていろいろ説明を受けるだろうが、断固としてそれは拒絶しなければならない」と忠告している。

このドレスデン空爆に関連して、新聞は「これを機に今後AAFは一般市民も爆撃対象とするのか・・・」という疑問を提示した。イギリスの通信社からの伝聞として、あるAP特派員はすでに空爆の数日後には、「連合軍空軍首脳らは、ヒトラー帝国を破滅させるため、無慈悲な選択だが全ドイツ市民を爆撃目標とすることに決定」と伝えていた。にもかかわらずイギリス空軍は以前から、ドイツ側産業設備の破壊や労働者殺戮と同時に、その社会構造を崩壊させるために一般住宅地域への限定爆撃も行ってきた。老獪なチャーチルは人命を奪うという表現をあえて避け、たんに家を奪うと説明しつづけてきたのであった。

すでに情報部からは、敵戦闘機部隊のみで、その性能からいっても危険はないという情報が入ってきていたが、高射砲はまた別の話だった。B29は低高度で、砲台が配備されている都市やその周辺部を飛行しなければならない。しかしこれまでの経験から日本軍の高射砲は、その目標捕捉レーダーや聴音機が質量ともに劣っているため、悪天候や夜間にはすこしも脅威をあたえなかった。もっとも恐れたのはサーチライトだったが、B29が各方向からいっせいに低空侵入すれば、敵照空隊は混乱に陥るにちがいないとルメイは読んでいた。

兵舎にもどった乗組員たちの話題は、会議の内容に集中していたが、反応は実にさまざまだった。経験豊富な将校たちは、ルメイの画期的な計画を高く評価していたが、多くは不安がっていた。ルメイは常軌を逸していると激怒し、自分たちは犠牲者だと嘆くものもいた。
「まさに早死にを宣告されたような心境だった」

ヨーロッパ戦線で導入された防弾服が、やがて太平洋戦線でも使われるようになった時、乗組員の多くは高射砲の破片が下から飛んでくると信じており、そのため、ごつごつした防弾服を着ないで座席に敷き、その上に座ったものだった。その後の経験から砲弾の破片はどの方角からも飛んでくるし、着用していれば防弾服は本当に有効だと分かると態度は変わった。

誰もが綿入れの防空頭巾をかぶっていたが、これは本来、炸裂した高性能爆撃がまき散らす破片から身を守るためのものだった。さらに、女性はぶ厚いもんぺを着、男性はズボンにゲートルを巻いていた。この身を守るはずの服装が、逆に命取りになった。火の粉のふりかかった防空頭巾が発火しても、身につけている人は気づかなかった。熱く乾いた空気中で、火はあっという間に全身に燃えひろがり、消火もままならぬうちに焼死する人もおおかった。同じ恐ろしいことが、母親におんぶされた幼児の防空頭巾にも起こっていた。
防空頭巾の難を逃れても、炎の壁の前方にできる熱せられた大気で悲劇はさらに大きくなった。路面が熱くなり、どんな小さな火の粉でも、もんぺやゲートルに付着するとすぐに発火した。頭から焼かれなかった人々は、足元から焼かれたのだった。

摂氏二度という凍るような水の中では人々は溺死していった。そして公園にいた人々も焼かれたり、窒息してりして命を失っていったのだった。

二葉国民学校での出来事は、ほかの耐火建築でも繰り返された。熱風によって割れたガラス窓や通風口から燃えさかる炎が建物内に侵入し、机やカーテン、棚、階段の手すりなど、燃えるものはなんにでも火をつけた。結果として建物は巨大なオーブンと化し、立てこもった人々を焼き、あるいは窒息死させた。

一方、兵士や警官は家財を失った人たちの対策と遺体の処理に追われていた。これほどの、おびただしい数の死体を眼にするのは前例がなかったので、身元確認と処理には陸軍と警察と消防署が共同で当たらなければならなかった。死体は家の灰の中、川、運河、地下室、学校、寺院、劇場、公園、道路―ほとんどあらゆる所で見つかった。遺体は荷車やトラックで学校や公園に運ばれ、発見場所を記した白い紙の札をつけ、身元確認のために陳列された。多くは見分けがつかないほど焼け焦げていたし、見分けがつくにしても大抵は住んでいた地域から逃げてきていたので、身元確認は難航した。火葬場での火葬はほとん不可能だった。身元が判明した遺体は各各の家の墓に埋葬したが、それ以外の大勢については二十人かそれ以上、まとめて公園や寺院に穴を掘って埋めれた。
陸軍と区役所が焼け残った学校などに設置した救援本部が人々の避難場所になり、そこで毛布とわずかな握り飯が配られた。かつて疎開することを拒んでいた人々も家を失ったいま、道はひとつしかなかった。鉄道がどうやら動くようになると、警察官と消防隊員は市内の主な駅に送られ、地方へ疎開する避難者たちの対応に駅員とともにあたった。最初のうちは被害を受けていない東京西部の家庭に移転するよう奨励されたが、数日すると人々は、学校や寺院など公共の建物に住まわせてほしいと政府に要請した。

火事になった商店や倉庫からの火の粉が風にのって放水路を渡り、精工舎と同規模を誇る藤倉電線(現・フジクラ)に飛火した。その結果、工場全体が大火災になり、ついには藤倉電線は閉鎖を余儀なくされた。そのほか程度の差はあれ、二十一の工場が被害にあった。零細工場や家内工場の被害の実数は明らかではないが、こうした工場のあった地域はほぼ全焼しているので、その甚大さは計り知れないものだった。
工場や機械の破壊や損傷など焼夷弾による直接被害に加え、三菱製鋼深川製鋼所の場合のように間接的ではあるが、重大な被害もあった。つまり工場の近くに降ったM69の雨は、離れて建っていた倉庫を焼いただけであった。つまり鉄工所そのものは無傷だったが、操業することができなかった。つまり工場労働者のほとんどが家を失い、東京にいることができなくなったからである。三月十日に家を失った約百万人の人々のうち、およそ二十五パーセントが労働者であった。一夜にして工業地帯の労働力を四分の一を失ったことの意味は大きかった。

ドイツ市民の死について自分がいかに考えていたか、ルメイは戦後つぎのように述べている。
「君が爆弾を投下し、そのことでなにかの思いに責め苛まれたとしよう。そのときはきっと何トンもの瓦礫がベッドに眠る子供のうえに崩れてきたとか、身体中を火につつめれ『ママ、ママ』と泣き叫ぶ三歳の少女の悲しい視線を、一瞬思い浮かべてしまっていたにちがいない。正気を保ち、国家が君に希望する任務をまっとうしたいなら、そんなものは忘れることだ」

・・・ノエルちゃんは悪くない・・・