ヤーボー丼―いかにして私たちはくよくよするのを止め、核ミサイルを持つか ・はじめに ・安全保障論議の諸前提を疑う から

お目ものーと
ヤーボー丼―いかにして私たちはくよくよするのを止め、核ミサイルを持つか 兵頭二十八 銀河出版 (1997/04)
絶版ですが武道通信にてインターネット読本で復刻!してるので、興味のある方はご購入を!! →http://www.budotusin.net/ 急げ!!
はじめに から

 私には、近代の評論家が何かを言ってどうなる組織ではない、早晩この国家共同体は亡ぼされるだろう、という確信のようなものがあります。その思いのうえに、せめて共同体の亡びを見にゃならぬ日本国民を勇気づけ、時にはホッとさせてもやれる職業として、良質のドラマを大量に生産できる「劇画原作シナリオライター」を選んでます。(まだ大量発表の場は得られませんけれども。)

私のモットーは単純です。
 それは、「すべてが連続勝利のため」というものです。「勝敗第一主義者」とでも呼んでもらいましょう。

成人全員が日夜「AはどうしたらBに勝てたのか。CはどうやったらDに勝てるのか」と考え究めんとしている国民だったとしたら、どうして自国内で一部特権階級の独裁などを許すことがありえましょう。戦前の日本人は、勝負についての考え方が浅薄で、甘チャンだった。だから外国に敗れる前に、自国内の軍閥に負けてしまったのです。勝負に無知で不勉強な国民が、勝負に無能な軍閥政権に使役され、弾丸代り、盾代りにされても文句は言えません。
 嗚呼、国が勝ち続けることは、なんと大事なことなのでしょう!

安全保障論議の諸前提を疑う から

日本の防衛体制の改革が着手されるのは、まさに日本が軍事的に滅ぼされてしまった後に違いない。
この国はもう助からない。
 しかし、最悪の破滅であっても、なにもかもが消えてなくなってしまうのではないはずだ。
 とすれば、21世紀の復活のためのマニュアルが必要ではないか・・・・・?
 と、このように考えて、私は「日本の防衛力再考」をまとめあげた。
 そして、完成した本を小笠原などの離島にある村立図書館などに、1冊づつ分散寄贈しました。もし国会図書館の蔵書が全部放射能でやられてしまっても、これら遠隔の図書館に問い合わせれば、このマニュアルが参照できるようにと考えたわけです。誰が参照するのかは知りませんけど・・・・・。

理論的にありえる災害には事前にすべて対策を考えろ、そういうしごく当然のことを、政治家や官僚諸君に促したいのです。それが、「アメリカを仮想敵国とせよ」ということの真意です。
 つまり、仮想敵国として地球最強のアメリカ合衆国を想定しておけば、それが一番いい訓練になるじゃないですか。その覚悟はまた、アメリカの威を借りて日本人をへこませることを常に考えている、支離滅裂な某近隣国をも正気づかせる道なのです。

「それについても致し様がござりまする」

後藤田正晴さんとうという衆議院議員がいらした。
この人は昔、内務省の役人だったという。
この、元内務省の官僚が、戦後繰返し、自衛隊を強大にしてはならないと言った。
自衛隊が大きくなると、また戦前と同じ事になる、と、元内務省官僚が言っていたのです。
内務省って何をするところでしょう?
一国内での暴力のバランスをとるのが内務省の役目ですよ。
その内務省の役人であったはずの後藤田氏が、戦後もう50年も経とうとする自民党現役代議士時代、いまだにこの見解から抜けられなかった。
まさに日本人が、戦前戦後を通じ、いかに暴力の研究が足りなかったかの証明です。

日本には武装警察がいないというのに、何が自衛隊という一国内の突出暴力とバランスしてるんでしょうか。
そろそろ分かって欲しいなあ。
それが駐留米軍じゃないですか。
日本のシビリアンコントロールはまさに米軍によって担保されているのですよ。
なにも彼らは、アジア戦略とか、核の非核散とか − ちなみにアメリカのN元次官補は元々この専門バカなのですが − コストパフォーマンスだけを考えて日本に駐留している訳じゃない。
アメリカ人は、その性質において、おせかっい焼きなんだということを、偉いセンセイ方をはじめ、みんなどうして忘れてしまうんだろう?
彼らは日本を潜在脅威だなんて思っちゃいない。彼らは、日本はどうしようもない未開国だと思っているのです。
彼らは、暴力をハンドリングすることのできない、したがって民主主義の基礎のあやふやな日本のために、いつまでもここにいてやるつもりなんですよ。

だからもし連邦政府が、ある特定の州に対して無理無体を言ってくれば、この州兵をもってアジアの小国並の武力抵抗はしてみせられるようになっているわけです。

だから、武装した都市、そして、武装した地方の貧乏貴族の暴力が一斉に中央に反発すれば、容易に国王の権力をそぐことができたんでしょう。
というわけで、ホッブズやロックの政治思想も、イギリスという天恵最も多き島が眼前にあったからこそ開花し得たのだと思われる。
これに対して大陸国家では、外国軍という国外の突出暴力とのバランスをとるために、相当の強大な陸軍を国内に常に置いている必要があった。
とうぜん、その一国の中での常設陸軍の暴力はあまりにも突出したものとなります。
だから、パラミリタリーな武装警察なくしては、大陸国家はすぐに軍閥の政府になってしまう。
それで、フランスから三権分立を説くモンテスキューが出て、イギリスには出なかったというのは、しごくもっとものように私にも思われるのです。

防衛庁の中にすら、将来日本が外国から核攻撃を受けることがありうると考える士は一人おいないわけだ。
与党にも野党にも民間にも、この日本国には、人はいないわけだ。
だったら元上等兵の自分ごときが「ときに范蠡なきにしもあらず」と、謡曲をうなってみたところで、どうにかなる段階じゃあ、もうない。怪しげな教祖のドゥームズデイ・ストーリーに現実感を補填される思いがした自衛官がいたとしても、不思議はないじゃありませんか。

実はマルクスはひとつだけ良いことを言った。それは、「学問の結論を恐れてはならない」というものです。ところが日本語は、まさに結論を恐れはばかるように話される言語でしょう。
だって、主語を省略できるじゃないですか。主語を省略できるということは、日本人が与えられた前提を疑わないというメンタリティと通底しているんだ。