混迷するシリア――歴史と政治構造から読み解く

混迷するシリア――歴史と政治構造から読み解く 青山弘之 岩波書店(2012/12/20)
目次----------------------------------------------------------------

シリアの現実を捉えられないメディア     「民主化」論への違和感    「アラブの春」の現実     混迷の実相に迫るには


第1章 バッシャール・アサド政権は「独裁体制」か?
1 モザイク社会としてのシリア
「独裁」政権の構造


2 「ジュムルーキーヤ」への道
議会制民主主義体制下での模索     H・アサドによる全権掌握へ     権威主義体制の確立     「ジュムルーキーヤ」の確立


3 権力の二層構造
目に見える権力=名目的権力装置     隠された権力=真の権力装置


4 亀裂操作


5 市民社会建設に向けた実験
「ビジネスマン」が牽引する市民社会建設     「独裁」と断ずるのは妥当か?


第2章 東アラブ地域の覇者
1 アラブ・イスラエル紛争―地政学的ライバル
二つの対イスラエル方針     東アラブ地域の安定を左右するシリア・イスラエル関係     レジスタンス組織との戦略的パートナー関係     B・アサド政権の「利用価値」

2 レバノンへの関与―二つの国家、一つの人民
「二つの国家、一つの人民」     「独立インティファーダ」の発生と対立激化     親シリア路線の「復活」    「地域の活断層」シリア


第3章 反体制勢力の「モザイク」
1 交錯する類型
反体制勢力の法的地位     公認組織、非合法組織     その他の類型化基準


2 反体制運動の高揚
「ダマスカスの春」    「カーミシュリーの春」    「ダマスカス宣言」運動    シリア政治を理解することの困難


第4章 「アラブの春」の波及
1 改革要求運動
B・アサド政権のしたたかな対応     「インターネット革命」?    進まない内政改革     デモの激震地から見た政権の姿


2 体制打倒運動
国外から指導される「革命」     衛星テレビの過剰報道    デモの弾圧    「シャッビーハ」とは    「上からの改革」     政権による動員力の誇示     頓挫する「シリア革命2011」


第5章 「革命」の変容
1 シリア化―反体制勢力の迷走
反体制勢力内の対立点     反目しあう指導者たち


2 軍事化―武装集団の台頭
自由シリア軍とは    暴力の応酬と諸外国への依存


3 国際問題化―混乱のさらなる助長
厳しい政権批判と経済制裁    対シリア制裁決議をめぐる攻防    政治プロセスによる事態収拾の努力    小康状態を保つB・アサド政権


終章 弾圧と「革命」に疎外される市民
外国人戦闘員の流入と破壊活動の激化    クルド人の動向    過去からの恐怖、現在の恐怖、未来への恐怖


参考文献

                                                                                                                            • -

 政権高官が自らの権力基盤を確保するため公職を濫用し、近親者や地元の支持者に利権を配分していることは広く知られている。それゆえ彼らの異動や政治的立場の変化がこの利権配分に何らかの影響を与え、地盤地域の住民に疎外感を感じさせていたとしても不思議ではないのである。
 第2の共通点は、激しいデモが行われた地域、とりわけダマスカス郊外県、ヒムス県が、過去数年にわたって他の地域に比べて厳しい抑圧に曝されてきた点である。両県は2004年から2008年にかけて、サラフィー主義者への弾圧がもっとも激しかった地域である。イラクでアル=カーイダが反米武装闘争を激化させ、レバノンファタハイスラームが暗殺・破壊活動を行っていたこの時期、シリア国内でも同様の事件が頻発し、2008年9月には、ダマスカス県南部のカッザーズ地区にある軍事情報局パレスチナ課施設前で車に仕掛けられた爆弾が爆発し、複数の軍人が死傷した。
 しかし、これら一連の動きへのB・アサド政権の対応は両義的だった。B・アサド政権は東アラブ地域の安定を脅かす勢力に対して断固たる態度で臨む意思を表明していたが、これらの勢力の背後には同政権の存在が常に見え隠れしていた。とりわけファタハイスラームは、シリアの治安機関がイラクへの潜伏を計画していたサラフィー主義者をレバノンに送り込んで結成させたと言われている。これが事実だとすると、B・アサド政権は自らの地域政策を推進するために利用してきたサラフィー主義者を切り捨てたことになる。そしてこのような裏切りがサラフィー主義者を過激化させ、その不満が彼らを輩出・庇護してきた地域住民の共感を呼んでいたと考えられるのである。事実、2008年7月、サラフィー主義者が収監先のサイドナーヤー刑務所(ダマスカス郊外県)で暴動を起こし、20人以上が殺害されるという事件が起きると、これに抗議して、被害者の家族・近親者がヒムス市で座り込みを行った。

「ならぬことはならぬのです」
日本の室町末期や幕末を見てるようだ、当時の外人もこうゆうふうに見ていたのだろうか。
剣豪の凄さをみせてもらえるのか?