近代日本の海外学術調査

近代日本の海外学術調査 山路勝彦 山川出版社(2006/06)
目次--------------------------------------------------------------------------------
人類学者の学的営み

①−学術調査の黎明期
人類学の夜明け前     東京人類学会の誕生     宗教者たちの旅路



②−植民地統治と研究調査
異民族を展示する博覧会     慣習法調査の着手―台湾総督府の業績     朝鮮総督府と慣習法調査     南洋庁の慣習法調査



③−人類学者学者と海外調査
鳥居龍蔵と海外調査の口明け     グレーゾーン上の鳥居龍蔵     日本民族学会の成立     植民地での学術研究     台北帝国大学―人類学研究の拠点     京城帝国大学と満蒙調査     満州の建国大学



④−戦時下の人類学
時代の潮流―古野清人の遍歴     杉浦健一のみたパラオ     国策と学術調査―台北帝国大学海南島学術調査     回教圏研究所・民族研究所・西北研究所     オロチョン族研究の方法     満鉄による中国農村調査

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今西錦司が馬オロチョンを訪れたとき、最初の印象は不健康で陰鬱であり、精神的に沈滞していた、ということであった。この印象は今西にオロチョン族の現実を突きつけた。これと比較してみると、馴鹿オロチョンのほうがいきいきして裕福そうで、狩猟者として成功している、との感想をもったようである。そこで今西は差異の原因を求め、経済的・政治的、そして文化的活動の相違について考えるようになる。
すでに述べたように、関東軍ソ連軍に対する防御の必要性から、射撃上手なオロチョン族に目をつけ、懐柔するための宣撫工作を行っていた。そのため、馬オロチョンは当局から特殊任務を受け、最低限の生活が保障されていた。この結果、狩猟は衰退し今までの生活秩序は破壊されてしまった。それに加えて、中国文化の影響を強く受け、伝統的習俗は残ったものの、文化は大きく変化していった。近代にいたっては、漢人商人からアヘンがもたらされ、それを購入するため、経済的負担が重くのしかかるという事態を招いていた。これが、馬オロチョンがおかれた当時の状況であった。それに対して、馴鹿オロチョンはいぜんとして狩猟民としての主体性をもち、狩猟に誇りを感じて生活を送っていた。馴鹿オロチョンは、ロシア文化の影響を受け、ギリシャ正教徒が多く、その宗教的信念の支えから、馬オロチョンのように生活が乱れることはなかった。
馬オロチョンのアヘン吸引は、狩猟後の疲労を癒したり、冬の寒さをしのいだりするために、当時、かなり蔓延していたようである。これに目をつけた泉靖一は、土産としてアヘンを持参すれば喜ばれるとして、軍から分与してもらい、調査の際に持ち込んだことがある。

そらのおとしものf主題歌 ハートの確率「最初で最後のスキ 最初で最後の大好き 運命なんてなにも知らずに決めた未来だから♪」