あたらしい武士道

あたらしい武士道―軍学者の町人改造論 兵頭二十八 新紀元社(2004/11)
お目ものーと
目次

まえがき
第1章 騎士と武士 何が三地域での性格を分けたのか?
野生馬の馴化から二輪車へ 二輪戦車から騎兵へ 槍騎兵から騎士へ 初期世界帝国は「騎士」を必要とした 「鐙」が無いことが農耕民に「騎士」を受容させた ステップから東漸した「騎兵」 「弩」は東西騎兵の性格を分けた 日本の武士が「鮮卑」に似る理由 遊牧民の「対抗不能性」 なぜ日本の武士は「弓馬の道」だったか 正しく伝わっていない和弓の威力 シナには「騎士」の代わりに「用兵もできる行政官」が育った 科挙では軍事の才能は掴めない 定住農業とヨーロッパの騎士 なぜ騎士は「騎射」をしなかったのか? 十字軍で騎士の「装甲」が強化さる 中世騎士に「戦死」はあり得ず ナイトとジェントルマン 第一次大戦の下地 近代日本の危うさ
・・・第一休憩室
第2章 武人と宗教 精神的権威の暗躍
古代インドの例 シナ仏教と日本仏教の性格 日本では仏僧のバラモンカースト化は失敗した 肉食と武人気質は関係あるのか? キリスト教会とローマ帝国の結合 ユダヤ教とコスモポリタニズム 中世の貴族は辻強盗の親玉 教会が「約束」の場になる 帝国主義とは掠奪騎士道なり 現実の騎士とは別に成立する「理想の騎士」像 約束破りこそが「恥」 「東洋の道徳」は「西洋の道徳」に劣った 昭和天皇を悩ませ給う 騎士の騙まし討ちは卑怯とされた 騎士から士官(将校)・紳士・エンパイアビルダーへ 武士道と近代日本軍 「反宗教」のシナに武士階級は確立しなかった 地理が「社会への信頼度」を形成してきた 天皇制武士道〜日本の天皇は国民の父ではなく姉であること 修羅道とヴァルハラ
・・・第二休憩室
第3章 武士の勇気 山鹿素行の模索
鳶が鷹を生む 画期的出版物だった『甲陽軍艦』 『甲陽軍艦』の作者 北条氏長と素行の因縁 赤穂「賓客」時代の執筆活動 義と利〜『山鹿語類』の「士道」論 義とは何か 赤穂「配流」後の素行の偉業 『中庸』の朱子註による三徳 『論語』の中の「知」 『論語』の中の「勇」 『中庸』と『大学』の「知」 『孟子』の中の「知」と「勇」 四端と五常 将軍家指南役の苦心 素行の保釈
・・・第三休憩室
第4章 武士と武器 日本刀のいろいろな意味
古いカタチと異常寸法 明治の「廃刀」は「条約改正運動」でもあった 将校と巡査はサーベルを持つべし 山縣有朋の刀剣嫌い 日本刀の技術的ルーツはインドなのか
・・・第四休憩室
第5章 現代人にとっての武術 あたらしい覚悟と修練
武士も小暴力に悩んだ 武士とヤクザとの違い 人それぞれの暴力の効用 「教訓的な対戦記述」は至難である 「戦闘」と「戦争」の違い 護身の入り口は「最悪」の想像力にあり 敵は「禁じ手」には拘束されない 他競技・他流は常に参考になる 敵はドーピング・サイボーグかもしれない 試合および演武の意味
あとがき

農耕文化でしかも工夫を好んだササン朝ペルシャの遺した大発明は、遊牧民でなくとも、また長期の猛訓練をせずとも、誰でもすぐに馬を乗り回せるようになる、合理的な鞍と鐙です。これは西暦4世紀頃のことで、ただちに東方のシナと日本にまで伝わっていますが、イベリア半島イスラム教軍を経由して西部ヨーロッパに伝わりますのは8世紀と、ずいぶん遅い。つまりあのローマ軍も終始、鐙の無い騎兵しか持たなかったのです。

シナではヨーロッパ式な「騎士」階級は生ぜず、ことさらに高い社会身分とは排他的には結びつかぬ「騎兵」のみがあり得ることとなったのでしょう。つまり圧倒的にな弩徒兵の集中は、後のスイス傭兵隊の長槍方陣と同じで、少数の重装甲騎兵など無力な存在だと人々に思わせてしまった。多数の弓騎兵ならば弩徒兵に対抗できますが、そこまで多数だともはや特権階級ではなく、しかも間違いなく匪賊・軍閥化して、漢人匈奴を製造するに等しい・・・。
かくして、シナに「騎士」身分が育たず、後漢のあと、三国〜五胡十六国時代から隋・唐にかけまして、満州の狩猟民たる鮮卑系の支配者が相次ぎましたことは、日本の「武士」の誕生にも決定的な影響を及ぼしたように思います。
すなわち、「中原の広域統一王朝にとって《重装甲騎兵》は金食い虫であって、なければないでよい」との価値観。それからまた「《乗馬本分者》の本領は騎射である」との価値観。―この二つの価値観が、三国から唐代にかけて大和朝廷にもたらされたのではなかったでしょうか。

むしろ、実力行使が必要なときには、多数の他者を動かしてそれをなさしめるのが理想である。他者には、部下もいるし、テンポラルな協力者もいるでしょう。とにかく動かせるだけ動かして勝ってしまう。できれば敵も味方の部下としてなるべく取り込んでしまいたい。そのためには、恩威併せ行っての「人心掌握術」「他者操縦術」が必要です。これは政治の営みの核心です。またそれには当然「他人」というものを見切ることができなければ始まらない。人を知れば、その人を動かすことができ、その人を動かすことができ、その人々をしてさらに多数の人々を動かさせ、強い敵に勝ち、敵を支配したり利用することもできる。これがシナの古い道学(儒教)でいわれています「知」の実用面です。
これがよく分かるのが、「国士」だとか「忠臣」だとか後世から讃えられているシナ人が、よく叛乱軍や敵軍の捕虜にされてしまっている事実です。唐朝の「安史の乱」で、叛乱軍に加担せず二城市の徹底防戦を指揮した張巡などが最も好い例かもしれません。部下将卒に仲間の人肉を食わせるようなことまで命じていながら、落城のときには自ら武器を揮うでもなくおめおめと捕虜になってしまっています。

アーマーに加えて、固有の紋章もまた、「自分は身代金を支払える領主である」ことの戦場のサインになっていました。ですから正式の騎士でない者が勝手に紋章モドキをこしらえて使ったりしたら、味方の大将から極刑が加えられたのです。

ただしそんな騎士にも自分の命の危険がまるで無かったわけではない。たとえば、その騎士が持っている土地が争奪の対象となってしまった場合。異民族の土地を奪うために侵略している場合。農奴や領民が、領主または代官に叛乱したような場合(伝統のロビン・フッドの武器は弓、ウィリアム・テルの武器はクロスボウです)。敵の採用する武器や戦術や戦争指導方針がたまたま変化した場合・・・。このようなとき、騎士といえども敵から助命されることは期待できません。
ですから騎士は日常的に肉体の鍛錬を欠かしませんでした。一対一の肉弾戦では、農民と騎士ちではまるで勝負にならなかった。この伝統は、今日の欧州の上流階級にまで連綿と維持されているのです。いちばん端的にそれが認められるのが、英国のパブリックスクール(名門私立高校)および「オックスブリッヂ」における、ラクビー、ボート、トラック&フィールドなどのアスレティズム(求道的スポーツ実践)でしょう。
クーベルタン男爵の肝煎でオリンピックが近代に復活したとき、そこにフェンシングや水泳や馬術はあっても、弓術の競技は含まれていませんでした(新種目として追加されたのは1972年)。古代シナで射芸が君子の必習技の一つとされていましたのとは大きな違いで、ヨーロッパでは、それは騎士のすることではないと考えられていました(火器以前の狩猟のときは別です)。たとえば現代の王室の人々が散弾銃競技に参加するのには誰も違和感がないでしょうが、アーチェリーだと少し違和感があるのです。それは英国であれば、農奴を先祖にもつヨーマン階級がすることであると思われるからなのです。ロビン・フッドはどうみても地下人階級のヒーローです。

ただしパブリック・スクールのアスティズムが日本の武道教育に勝っていた点をわたしどもが閑却してはなりますまい。武道教育は仏教流に「生も死も同んなじだ」を覚悟させることができればその時点で「半成」しますので、実戦のさなかで疲労困憊したり負傷したり味方が総崩れになったり窮地に追い詰められたさいの、そうなっても「一人でも粘り抜く闘争心」を生徒に持たせることがなかなか難しい。国軍のために、粘り強い将校を大量に供給できたのは、キリスト教徒(それも英国教会信者限定)の有名パブリックスクール/オックスブリッヂの方だったのです。

新渡戸稲造がその中村版に序文を頼まれておりまして、「葉隠の書は鍋島藩の武士道を吹鼓し一藩の歴代奉尊したるものなることは夙に之を聞けり」と寄せております。しかし、力作の『BUSHIDO』の中で1回も言及をしていないのですから、本当は新渡戸さんも聞いたことすらなかったに違いありません。江戸時代には、たとえば佐賀の藩校で用いられたこともなかった(神子侃葉隠』S39の解説による)んです。

とはいえ、さすがに長い間には、この虚構を見破る白人武人貴族も現れました。その一人が、シャカ族という武人貴族の家に生まれた、仏教開祖ブッダ(最近推定BC463〜383)です。
若き日の仏教開祖は、バラモンの言いつけるキツい修行を大マジメに実践したんですね。彼はそれでほんんど疲労餓死しかかった。しかし、幽冥の境から生還したときに、こんなアホな苦行によって輪廻を脱するなどというバラモンの教えは、まるっきりウソッパチじゃないかと悟ることができました。
といいますか、そもそも輪廻から解脱しようと足掻くことに意味がないのだと悟ったのが、ブッタだったのに違いないんです。ちなみに悟った場所は、チベット南麓の比較的に冷涼な高地。すなわち、誰もが輪廻のリアリズムを納得せざるを得ないガンジス河流域の気候風土とはすこぶる懸隔のあるところでした。

バタバタと人が死に、もうこの世の終わりが来るのではないかと人々は思った。なにしろ、貧乏人よりも清潔に暮らしているはずの貴族階級からも無差別に死人が出るのがショッキングでした。
このとき、大和朝廷テクノクラートの一翼を構成していた官僚僧侶たちが、シナ渡りの知識を駆使した施薬と救恤に、活躍を見せたのです。渡来僧の鑑真は盲目でしたが、鼻で薬種を嗅ぎ分けたと伝えられている。このようなハイテクのマスターであった仏僧に対し、古くからの神道支持派らは、ただ天地山水に祈ることができただけ。ここにおいて、仏教の国教化は、日本の上下に承認されることになりました。

シナ仏教は輪廻肯定です。バラモン教に似ています。うまくこれを利用すれば、奈良の僧侶たちは、バラモンカーストを日本で創出できるかもしれない。
しかし、そうは問屋が卸しませんでした。当時の朝廷の貴族は軟派ではなく、武人気質の豪族たちでした。その武人貴族たちが「お前たちは国家公務員だ。役人だ」と、氏素性に劣ったところのある僧侶を任命し、国費で寺を建てて国庫から給料を払っていたのですから、政治的権威でもう負けていたんですね。

でも優秀なインド人がインドにいたままでは、大数学者とはなれない。アメリカの大学や企業に行き、初めて彼らの才能は花開くわけです。あくまで都市のメインカルチャーが、個人の才能の受け皿になる。日本の偉い坊さんも、大寺院という当時の擬似都市の中で業績を残せたのです。

日本でも「起請文」といって、この誓いを守らなかったら神仏の罰が当たる等と自分で書いて相手に差し出したものが源平時代から江戸時代まであるんですが、いくら特殊な用紙、特殊な運筆、特殊な血判を用いても、信憑性の担保はけっきょく当の本人の良心任せでした。第三者の宗教家の立会人あ介在しない故です。それですと、当事者同士の力関係が将来変化し、遥かに強くなった側が誓いを破っても、その没義道性を咎める声は公的空間から掻き消えてしまう。神様も仏様もじっさいには罰しないですから、ますます神仏の権威などは紙の上だけの便宜的で相対的なものに俗化するというわけで、この社会的強制力の希薄な誓約のスタイルが、東洋の近代化を西洋よりも遅らせることになったんだろうと兵頭には思えます。嘘を非難する文化が、東洋には育たなかった。
嘘を許容するような文化では、けっきょく身内としか、ビジネスはできないことになります。どちらが手広く世界の他人とビジネスしやすいのかは自明だと思います。
といっても、教会の権威が強化されて、それで西洋騎士の山賊行為がただちに影を潜めたわけではありません。たとえば『アーサー王の死』を1485年に英国で印刷出版した騎士、サー・トマス・マロリーは、同時に修道院強盗・強姦・殺人未遂・脱獄の前科者であり、本を書いたのすら獄中であったと伝えられてるぐらいなんです。
その少し前に終結しております英仏百年戦争。このとき、フランス側の挙国一致体制がなかなかできませんでしたのも、強盗の親玉である地域領主の勢力がフランス王家を上回っていたからに他なりません。そしてその地域領主はどうして領民や教会からとりあえず支持を寄せられていたかと申せば、彼らだけが、有象無象の半端「騎士」たちの辻強盗を禁圧できる唯一の実力統治者であったからです。

日本の田舎に住んでいた読書人が『源氏物語』を入手してひもとくことで、「王朝貴族は何をしていた人か」「そもそも京の都とはどんなところか」の心象が、日本人全体に共有されていました。関東の武士たちも、嫌々ながらこの長編をいっぺん読み通して、「オレも将来もし官位が上がったら、こういう世界に慣れなきゃいけないんだな」と自覚をし、辞世の歌をシチュエーション別に予め練っていたりしたのです。

また興味深いのは、騎士の「節度」という徳目は、要するに「臣従契約をした君主に叛逆しないこと」なんです。これは儒教の「孝」がもともとは「自分の父親を殺さぬこと」であったのと同じくらいは見逃されがちでしょう。
騎士が、ある大城主と結んでいた主従契約の内容に違反しない限り、同時にまた、別な大城主と主従契約を結ぶことには、特に問題はありませんでした。

中世西欧の封建の契約というのも、できない約束はしないのです。もし私の所領の権利を確認してくださるのなら一年のうち何十日、その王様の軍役に助太刀しましょう、と誓っていたもので、その契約の規定日数がキチンと経過すれば戦闘の途中で所領に帰るのも、敵陣営の大領主に助太刀するのも基本的にオーケー。ここでも、契約不履行、約束違反、嘘をついたこと・・・だけが、社会が騎士を道徳的に非難する材料となったのでしょう。

昭和天皇は、立憲君主制ですから臣下にああせよこうせよとは言えない。その代りに、16年9月6日の御前会議開で、明治帝の御製「よもの海みなはらからと思ふ世になどなみ風のたちさわぐらむ」を二度お詠みになる。

東洋・・・といいますか漢代のシナには、王が貧しく暮らし、庶民は安逸にゆたかに楽しむべきだという奇妙な発想がありました。兵頭は、これは道教なのだと思っています。
しかし貴族や王者の清貧は、あまりにも不自然なので、現実にはまさにその逆とならざるを得ない。タテマエと現実に天地の開きがあったら、公共善は腐敗するのではないのでしょうか。武勇に優れた騎士こそがカネモチになる資格があるとした西欧騎士道の方が、じつは「機会の平等」を実現する現代の正義に、より近かったのです。

たとへば明治23年教育勅語でしょう。「我力臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我力國體ノ精華ニシテ」・・・というのはまるっきり孟子流の水戸学に他なりませんでした。シナでも機能していない儒教のスローガンを近代法以上に強いんとするのは、無私の天皇にはまるで必要のないことです。日本の天皇は盗賊の親玉ではない。これほど近代天皇の公共善性を脅かした勅語もありません。天皇の徳は無私にあるので、そのマネを国民がすることはできないのです。
孟子流であるということは、徳が外敵を屈服させるという朱子学風のオカルトに国民を誤導しがちであり、これが水戸学と組み合わされれば玉砕作戦マンセーです。小国なりとて瘠我慢して大国と張り合っていこうという英米派の知識人がキリスト教容認であると疑われてその反動でこんなものが書かれたのだともいわれますが、庶民の独立の気概をもっとかきたてねばならなかったときに、近代日本国民の国防精神は狂わされたのです。

平忠盛がそうした武臣として最初に昇殿を許されるようになったのは、おそらく私貿易で築いた財力を中央への賂いに行使していたからでしょう。しかし武力と経済力の人物だけだったら、中央で既得権をもつ既成貴族たちは感情的に納得しません。そこで、伝説なのか実録なのか知りませんけど、忠盛は鳥羽院の下問に対してシャレ満載の和歌の即吟で答え、それが嘉納されたという話が伝わっています。『忠盛朝臣集』があるくらいですから、和歌の実力はあったようですけれども・・・。
みずから武人であることをとっくに放擲してしまっている高級文官貴族たちとしては、平氏にしろ源氏にしろ、下級の武人貴族が中央でノシ上がってくるのは、やはり怖かったわけです。しかし、その武人貴族の方から和歌の道を学ぼう、つまり文官貴族を師と仰ぎ奉らんという姿勢を示してくるなら、話は別となりました。
このようにして日本では、宗教が武士の頭を抑えることがなかった代わりに、和歌が武士よりも上に立ちました。敷島の道(歌道)は、カトリック教会のようなドグマを武人に強要したりはしませんから、武士の方としても、学びたくなければ学ばなくてもよかったものです。しかし、学べばいろいろ得なことがあるように、文官貴族は頭を使って計らった。
武臣が宮中に出入れし、貴族交わりをするためには、和歌の一定教養が必要だとのコンセンサスは、日本では平安期から昭和前期まで一貫してありました。朝廷をすっかりおとなしくさせた徳川幕藩体制の中にあっても、とりあえず自分の殿様と近づきになりたいと出世を欲する野心家のサラリーマン武士たちは、懸命に和歌を習ったんです。たとえば柳沢吉保は1700年に公家の北村季吟から「古今伝授」を受けている。これはいわば武道の奥印可のようなものです。そのくらいしておけば、朝廷に将軍家の使者として出入りするのにも不足がないと周囲からも認められたんですね。
葉隠』の著者の山本常朝も、鍋島藩の家老になろうとして同じような努力をしましたが、こちらはどうもおつむりの出来がよろしくなかったようで和歌にしろ何にしろ一流にはならず、出世の試みは失敗に帰しました。そういう武士は全国にゴマンといた。ならば黙って自省していたらば殊勝であったものを、小人の常として八つ当たりに拗ね回り、文武どちらの道も有能である吉保のような出世武士たちを嫉み且つ貶め、自己の正当化をくどき連ねたんです。元禄〜享保という時代の風潮あ全国的に立身をもてはやしていましたので、つい浮き足立った。
当時、山鹿素行の書いた武士論あ全国でよく読まれ、それに刺激されて自分版のエピゴーネンを書いてみた武士がよくいたんです。しかし後まで残った文章はほとんどない。『武道初心集』は数少ない例外の一つで、著者の大道寺友山は軍学者の小幡・北条のれっきとした門下でした。が、それでも幕末まで、読んだ人は少なかった。天保5年に松代で板行されましたが、それは内容が変えられていた。オリジナルに近い56ヶ条本は、やっと大東亜戦争中に公刊されているんです(『完本武道初心集』)。
かたや『葉隠』の著者は弟子すらもたない一隠居。その風変わりなテキストが明治時代まで佐賀に大事に保管され、佐賀藩明治維新で勝ち組となり、シナ事変中の陸軍省によって大いに宣伝されるよになるとは、真の著者冥利でしょう。
鎌倉幕府が日本全国の収税と分配の采配権を朝廷から事実上奪ってしまうのに同期して、宗教界でも「貴族」の威光はやや衰えます。おかしな話ですが、平安時代は、名門の貴族が出家しますと、資質や学問の進み具合には関係なく、僧としての超特急の出世ができたんですね。仏教界も能力主義ではなくなっていたんです。いくら才能ある僧でもバックの親戚に見るべきものがなければ、あるいは上司にゴマスリをしなければ、一生下積みだった。そこで、時代が武家の世になるや、独創に長けた若い僧がそういう世界での出世を放擲して、武士や庶民に新仏教を布教した。みずからもそれで驥足を伸ばすことができたわけです。雰囲気としては、昭和の革新官僚/少壮将校でしょう。
法然というアンチ貴族の天才的出家は、庶民でも覚えられる簡単な念仏だけ繰り返して唱えりゃいい、それで修行としては十分なのであって、誰でも家柄に関係なく、貴族と同じように来世での資格が生じますよ、と説きました。その勤行にはシナのフイフイ教徒(イスラム)の間接的影響もあったのかもしれませんが、当時バカウケです。
また親鸞は「悪人」もOKだと言ってくれた。儒学で「小人」といえば学才はあるのに徳で劣る男子のことですけども、この「悪人」と申しますのは、いまの学校の教科書ではぼやかしていますが、ズバリ「IQの低い者」のこと。それには、当時の鎌倉武士も含まれていたのです。梶原氏を除き、ほとんど文盲でしたからね(当時、武家の日記は皆無)。幕末でも、福沢諭吉がオランダ築城書を和訳するときに、緒方洪庵先生から、今の武士は文盲だから子供でも分かる文字だけを使え、と注意されたエピソードが残っているくらいです。

室町時代夢窓疎石(1351年没)は、武士に禅宗を広めるために、殊更にに「不立文字」を強調しました。彼の師匠は天台で経典に明るかったが、臨終があさましく、とても成仏したようには見えなかった。経典の上っ面の知識は悟りとは関係ないんだと疎石はショックとともに察したのです。しかし布教のためとはいえ、また彼自身には深刻で特別な経験に基づくこととはいえ、「不立文字」のスローガンを流行らせてしまったのは、日本の哲学の進歩のためには、たいへん有害だったと思います。少なからぬ昭和の海軍人が、この禅宗精神で部下や国民への説明責任を回避しています。
日本の禅宗は、坊主が貴族や武士になり代わって朱子学を究めんとし、武士のための「帝王学」を知識として蓄積し、ついに朱子学の独自のバージョンを徳川幕府の公認「士道」として採用させたところで、進化が止まってしまいました。
西洋のスコラ哲学は、あくまで文字で説破していく学統です。日本の禅宗は、言語いよってアイデアを探るまっとうな学問を俗世人である朱子学者に譲り渡してしまったわけです。
日本の武士が「質素」の徳を階級の属性として受け入れたのはそもそも鎌倉時代禅宗影響だと信じられますが(深作安文『倫理と国民道徳』T5)、これがまた、坊さんと武士(軍人)とどっちが高潔なのか庶民から見て分からぬという、日本独自の逆転を最終的にもたらすことになったでしょう。ただ行政官としては、のちに庶民にまで質素を押し付けようと致しましたのは明白な経済失策です。これが江戸幕府を列強より弱体にしてしまったことに少しも気づかずに、さらに昭和の統制官僚がこの精神を引き継ぎまして大東亜戦争の物質的自滅を招いておりますのは、案外日本の宗教的な敗因と申せるかもしれません。
地方で近世のお公家さんは、たとえば和歌や蹴鞠を秘伝として商売をし、それらの指南料を自分の食い扶持にするほどに落ちぶれてしまったんですが、名目の席順を武士の下へ置かれることはなかった。これは、やはり無我の天皇と結びついていたのを、武士の側から尊重した結果です。
自我のある人としての最高の存在は武士でしたが、その上に、自我のないもっと上の非政治的な存在を道徳的権威として戴くことができたから、日本には宗教は要らなかったのです。天皇と武士の在り方、関係が、宗教そのものだった。

鎌倉時代に仏教帰依者が書いた『平家物語』には、「清盛一派すら亡ぶ。しかし皇統は不滅だ」という日本人独自のアプリオリな自信が横溢しています。「諸行無常」はインドやシナならともかく、日本の天皇にだけはあてはまらない、と。
しかし、朱子学信奉者が書いた『太平記』では、ずいぶんテイストが変わってくる。南朝方は、正しさのみを理由としてオカルト的に強い。にもかかわらず戦争には負ける(笑)。「となれば宋朝と同じだ。皇統も、もしかすると危ないのではないか・・・?」という危機感が蔵されています。元寇のショックは、長く尾を引きました。
多神教の国では神は「母親」(生産をする大地)にたとえられ、一神教の国では神は「父親」(怒る天)になぞらえられることが多いようですが、日本の天皇にはどうも母のイメージも父のイメージもふさわしくない。敢えて言うなら「姉」だという気がします(兵頭には姉がおりませんのでこの見方は間違っているかもしれません)。

新渡戸稲造の『武士道』に反駁して、日本の武士は儒教なぞに支配されてはいない、禅宗の影響こそが圧倒的だったんだ―と津田左右吉が怒鳴りましたとき、シナ儒教への近代的軽蔑のほかに、彼の脳裏には、武士家庭しか習わなかった謡曲の教養が、蘇っていたんじゃないでしょうか。

しかしとりわけ『甲陽軍艦』がヒットした理由は、そうした世間の最新の興味に満足を与える以上の、新しい内容に満ちていたことです。類似作品がそれ以前に無い、斬新な刊行物であった。いわば書籍のニュー・ジャンルを開拓したものでした。
ごく単純に説明しましょう。それ以前の軍記物の古典、たとえば『平家物語』は、仏教による天皇制の宣伝のようなものです。また『太平記』は、朱子学による天皇制の宣伝でした。それをいくら読んでも、武士として最も知りたい「勝敗の理」は究明し難かったのです。
ところが『甲陽軍艦』には、勝敗や興亡の必然性が、一人一人の人間の生々しい政治的かけひきの巧拙にあるということが、示唆されている。政治的に軍事的に、こうすれば勝てて、こうすれば亡びる、というヒントに満ちていたのです。
たとえば兵頭が読んで個人的に感じますのは、家康や信長はカネモチのようだが、勝頼の代の武田家は東海勢に比べて貧しい、金山が枯渇しただけで二代目は簡単に貧して窮してしまったのではないか、という背景です。特に鉄砲の弾薬消費が抑制されているように見受けられる。ひょっとすると長篠での敗因も、鉄砲の数だけではなく、事前弾薬準備量が絶望的に取るに足りないので、ひっきりなしの発砲が止む気配もない敵陣に向かい、仕方なく白兵で肉迫せんとしたかもしれない。そんな圧倒的な経済力の「南北格差」がじわじわと、中間地帯の雑兵・領民を悉く敵国軍に取り込ませる流れをつくったのでしょう。

武士道なんていいだすと、お母さんから「またへんなものにかぶれて」とぼそっと言われそうですが、僕がいままで本を読んできた中でもっとも刺激を受けた本。こりゃもう、僕のバイブ・・・バイブルです!!
みなさんもこのページからアマゾンさんに入ってお買い上げいただいたらいいんじゃないかな? ホテルとかにも一部屋1冊常備したほうがいいんじゃないかな? そしたら生徒会の一存11話の真冬ちゃんみたいに「クス」てなるんだから、よ〜しこんどはヤンデレにチャレンジ!!
この本をよめば、誰もが思わず「これで10年は戦える・・・」とつぶやく。