疫病と世界史 下

お目ものーと
疫病と世界史 下 ウィリアム・H・マクニール(著) 佐々木昭夫(翻訳) 中央公論新社(2007/12)

ところが一九一一年、満州族清王朝が衰微していよいよ崩壊の時を迎えようとしていたとき、漢民族満州に移住することを禁じるという、それまで長い間施行されてきた規制措置が行われなくなった。その結果、事情を知らない漢民族移住者の大群がマーモットの毛皮を追いかけることとなったが、彼らはその土地の伝統のことなど何も知らず、病気に罹っていようがいまいが見境なしに罠で獲りまくった。当然ペストが彼らの間に発生し、次いでいち早くハルビン市に形成されたペストの都市内中心部から、満州に建設されたばかりの鉄道によって四方に広がったのであった。

草原の齧歯類の地下都市に感染が始まったのは、一三世紀中葉モンゴルの征服者が雲南省ビルマとモンゴリアの間に、移動する騎兵の懸け橋を設けた直後だろうと想像するわけだ。それに、モンゴリアの感染は全草原地帯の感染を意味しない。ほとんど百年近くかかってパスツゥーレラ・ぺスティスは、一九〇〇年以後北アメリカで見せたのと同じやり方で、齧歯類の一集団から次の集団へとユーラシア大草原を横断していったと想像される。

ペストの伝播に際して、隊商基地と製粉所にネズミとノミが集中していた事実の持つ意味については、筆者はレディング大学のバーバラ・ドットウェル氏との書信によって認識を新たにした次第である。

これは一二九一年に恒常化した。この年ジェノヴァの一提督が、これまでジブラルタル海峡の自由な運航を妨げていたモロッコ軍を破り、この海峡が初めてキリスト教徒の船舶に対して開かれたのである。また一三世紀には船舶の構造に種種改良が加えられたため、年間を通じての航行が可能となり、ヨーロッパの航海者は朔風吹きすさぶ大西洋を冬期にも無事渡航できるようになった。

聖職者のこの実証された異常な高死亡率が住民全体に投影できるかどうかは、論議の的となっている。

一七九三−九四年の恐怖時代に、パリその他の都市で見られた公衆の行動様式は、一七世紀にペストとペストへの恐怖心に対する反応として半ば儀式化し。一七二〇−二二年のペスト発生に際してフランスの多くの土地で復活した、大衆の興奮の表現パターンの流れをひいているとするものである。また、ロシアのエカテリーナ二世も、ペスト流行時の社会的コントロールの問題に苦慮したという。

こうして、気候の寒冷化と毛織物供給の増大は、ハンセン病バクテリアとフランベジアのスピロヘータを存亡の瀬戸際に追い詰めることになった。

ドイツとドイツに隣接する地方では、鞭打苦行者の集団が、お互い同士血みどろに打ち合うことと、ユダヤ人を襲撃することで、神の怒りを和らげようとした。ユダヤ人は、ペストの毒を故意にばらまいた下手人と見なされて、迫害されるのが常だったのである。鞭打苦行者は教会と国家の既存の権威を一切認めず、資料を信ずるなら、彼らの祭祀はしばしば参加者の集団自殺の観を呈したという。

例えば多くの学者が言うことだが、世俗語が正式の文書にも使われるようになり、また西ヨーロッパの知識人の間で、共通語としてのラテン語が衰退していった現象は、この古代語を自在に操れるまでに習得してる聖職者や教師が大勢死んだことで早められた。絵画も突然の不可解な死に繰り返し直面することで引き起こされた、人間の生についての暗いヴィジョンを反映した。

トマスの神学その他それまで公認されてきた信仰形式の指導では満たされぬ、もっと私的で反戒律的な神への接近の欲求に、表現の途を与えるものだった。ペスト流行の繰り返しは一七世紀半ばまでこの心理的欲求を絶えず新しくよみがえらせ続けた。だから組織されたキリスト教の三大支流、正教会ローマ・カトリックプロテスタントのいずれもが、個人的神秘主義その他様々な形を取った神との霊的合一の実践を次第に容認していったのも不思議ではない。たとえ教会当局が、あまりにも私的な熱情に当面したとき常に不快の念を覚えたのは事実としてもだある。
第二に、教会の既存の儀式と聖礼典の手法は、前代未聞のペストの出現に対処するにはあまりに不充分で、むしろ信仰心をぐらつかせる結果を広げるほどだったということである。十四世紀には大勢の僧侶が死んだ。そして後継者たちはまだよく訓練されていず、しかも彼らが相手にしなければならなかった群集は、公然と敵意をむき出しにしてくることこそなくとも、これまでになく冷笑的になってしまった連中だった。ペストが或る人間を斃し他の者を見逃すその不条理のうちには、神の正義など到底求むべくもなかった。秘蹟によって神の恩寵を授ける通例の儀式はあ、たとえ聖別された高僧が生き残っていてそれを執り行った場合でも、高致死率の感染症と突然の死の統計学的気まぐれには、心理的にとても釣り合いのとれるものではなかった。もちろん、反教権主義はキリスト教のヨーロッパで何ら新しいことではなかったが、一三四七年以降、これはより公然とまた広い範囲に浸透しゆき、後代のルターの成功を準備するひとつの要因ともなった。

北方ではペストが到来したときこそ特にひどい被害をもたらしはしたものの、到来自体はごくまれだったので、プロテスタントの人びとはそうした手段を発達さすべき充分な動機を欠いていたのだ。

教会特有のどうしようもない硬直性とは打って変わって、諸都市の行政当局特にイタリアのそれは、激越な悪疫の挑戦にかなり素早い対応を見せた。

キリスト教徒の間でのエジプトの悪評は、宗教的偏見のために強いられたであろうことはもちろんだが、ナポレオンが一七九八年マムルークの支配を倒し、そのためエジプトと黒海沿岸の長い間のきずなが断たれた時を境に、ペストの発生は減少し、一八四四年以後何十年もの間姿を消してしまったのも厳然たる事実なのだ。

こうした経外伝承の教えは、ペストに対坑しようと組織的な努力を試みる意欲を抑止する結果をもたらすものである。もっとも、ここで疫病と訳されている言葉が意味するのはペストではなく、マホメットの時代に蔓延した他の感染症であろう。それは恐らく天然痘を指している。天然痘はアラブによるビザンティン帝国ササン朝ペルシャ領の征服に先立ち、またその直後にも見られるからだ。

イスラム教徒はキリスト教の衛生法を軽蔑して笑ったが、そのために彼らは隣人のキリスト教徒よりもはるかに多数のペストによる死亡者を出すことになったのだ。
バルカン諸地方とインドのほぼ全域で、イスラム教徒は支配層を形成し好んで町に住んでいたため、このことが人口動態上ひとつの大きな難問を生んだ。きわめて感染力の強い病気は特に町において勢いが激しい。だから、被支配層の住民によるイスラム教への改宗者が、絶えず町に流れ込んで、イスラム教徒のペストその他の感染症による人口損耗を補うようでないと困った事態になる。インドではそういうことはなかったが、バルカン半島において田舎の農民が前からの信仰を墨守していた地方では、十八世紀に改宗の動きが鈍化し遂に停止しそうになったとき、イスラム支配の人口的基盤はにわかに薄弱になってしまった。バルカン半島キリスト教諸民族に起こった民族解放運動は、その蔭にこうした人口上の要因が伏在していなかったらなら、十九世紀にあのような成功を収めることはなかっであろう。

黒竜江河口からダニューブ河の河口に到る全域に住む草原の遊牧民が、初めて高致死性の感染症に接した結果として大変な人口減に苦しんだのは間違えない事実というこになる。そうとするなら、中国、ペルシャ、ロシア等の定住する諸民族に対するモンゴルの支配権を維持するためには必要不可欠だった、軍事上の人的資源の補充が困難になった事情は、直ちに了解されよう。

オスマン・トルコの奴隷市場の需要はほとんど無限だった。そのことをあてにして、クリミア半島に居を構えるタタール族の騎兵たちは、ロシア人の村落を襲い、獲物の人間が見つかるまで長い距離の荒野を駆け抜けるのであった。だが、こうした奴隷の捕獲を目的とする襲撃も、草原地帯がすでに無人に近かったことを説明するものではない。遊牧民と彼ら家畜はどこへ行ってしまったのか。

ヨーロッパの航海者によるアフリカ大陸の迂回

一七世紀には強力な銃の改良ということがあり、草原の騎兵隊が備えている伝統的な弓矢の戦法が、訓練せれた歩兵隊には敵し難いことになった。そこで、農耕を基礎とする隣接諸帝国によるユーラシア大草原の分割という事態が、速やかにまた不可避的に進行した。ロシアと中国がそうして利を得た主な二国である。

アメリカ産の生物が野生の環境内で旧世界の生物との競争に勝ったためしはほとんど無い。もっとも若干の例外はあり例えば、一八八〇年代ヨーロッパの葡萄畑を壊滅に瀕せしめたブドウネアブラムシなどの害虫がそれである。

そして一九五〇年、カヤポ族の血を引く個人がまだ二人か三人存在してはいたものの、部族そのものは完全に消滅した。しかもこのことが起こったのは、彼らインディオに対する限りない善意と、彼らを外部との接触から来る病気やその他様々な危険からなんとか保護しようという、細心の処置が取れれたなかでのことだったのである。

或るドイツ人宣教師が一六九九年に記した言葉は、ここに紹介する価値がある。「インディオはあまりにも簡単に死んでしまうので、スペイン人の姿を見、その匂いを嗅いだだけで息絶えてしまうほどである」

アフリカ生まれの熱帯性の感染症は、ヨーロッパ渡来の様々な感染症が引き起こした破滅の後を受けて、最後に駄目を押すかのように新大陸に襲いかかって来、各地に大規模に根付いてしまったわけだが、その結果は、以前住んでいたインディオ住民のほぼ完全な消滅だった。一方、熱帯性の感染症が入り込むことのできない地域、例えばメキシコ内陸の高原やペルーの高地などでは、コロンブス到着以前の住民は、もちろんドラスティックに衰えてしまったわけだが、完全な滅亡とまでは言えない。
カリブ海沿岸、またカリブ海の大部分の島嶼では、アフリカ人の奴隷が消え去ったインディオに取って代わった。大農園方式を取る事業が膨大な人間の労働力を要求したのである。
多くのアフリカ人は、マラリアと黄熱病の存在する場所で生き延びられるようになっていたから、この二種の熱病による人的損耗は比較的軽かった。だがそれ以外の感染症、特に消火器を侵すたぐいの様々な感染症が奴隷たちの高死亡率をもたらした。それに加えて、男性が圧倒的に多かったこと、子供を育てるのにきわめて不適当な環境、アフリカから人間が次々に運ばれてくるため各地方ごとの疾病パターンが乱され続けたなどの事情のため、カリブ海地方の黒人人口は、十九世紀に入ると、新来者の流入が断ち切られ、二世紀半もの間大西洋に病気をまき散らしてきた始末の悪い奴隷船の往復がやんだため、カリブ海のほとんどの島嶼で黒人の数は次第に上昇し始めた。

英国陸軍に所属する原住民のアフリカ人部隊における死亡率を示す十九世紀初頭の数字によれば、同じ熱帯アフリカ内でも別の地域に移動し、未知の病気に曝され、全く新しい生活様式に変わった場合には、病気による死亡率は五〇パーセントも増加している。それでも、白人兵士の死亡率の方がアフリカ人をはるかに上まわっているのである。

アフリカの農耕民に速やかに普及したとうもろこしとマニオカ芋の栽培による栄養の大幅な改善という事実は、病気による死者の増加を見えなくさせ、それどころかほとんどの場合、それを償ってあまりあるほどだったのである。これらアメリカ産の作物によって可能となったカロリー生産の上昇は、耕地面積に対する人口密度の旧来の上限を押し上げた。

都市のスラムやそれに近い環境、つまり栄養の悪い人々が惨めに蝟集している場所では、無数の他の感染症結核赤痢、肺炎などが獲物を奪い合っていた。発疹チフスは、ほかの多くの感染症よりも速やかな死をもたらしたというだけであって、発疹チフスによる死者数の大きな数字をひと目見たとき想像されるほどには、人口に大きな影響を与えなかったのだ。

だが、感染を恐れて二人が突然逃げ去ったために、ルター派とスイス派(すぐ後のカルヴァン派)両派の改革運動の分裂があのような方向に固定されてしまい、それが以後のヨーロッパの歴史に深く影響し、今日まで続くことになるのも、厳然たる事実である。

ヨーロッパの版図の拡張ということは、ほとんど近代史の中心をなすほどの基本的事実なので、われわれはついそれを当然のことと考え、海外派遣用、いや時には単なる消耗用の無数の人間が、あれほど種種雑多で、危険に満ち、人口的にも損の大きい行動に参加するというのは、そこにきわめて例外的な生態的条件が整って初めて可能だったことを見落としがちである。

原住民の数が大きく減ってしまったことと、ヨーロッパ人があれほど広大で多様なからっぽの土地を占拠する能力を持っていたことのいずれも、間違いなく近代的な疫学パターンの産物だったのだ。

医者に任せて周りの者は、いかなる処置を取るべきかを決定する責任を解除される、ということもあった。だから彼ら医者の役割は聖職者のそれと非常によく似ていたわけである。

医学治療と医療機関が人類の平均寿命と人口増に大幅な変化をもたらすのは、実はようやく一八五〇年以降になってからのことなのだ。

安価で豊富な馬鈴薯のお蔭で安上がりに生きることが可能となったため、アイルランド人は、イギリス入植者との競争に競り勝つことができたのだ。スコットランド人の農耕技術と生活水準もアイルランド人とほとんど同じだったので、彼らもアルスター地方でなんとか生き延びることができた。

雑草を抑制する手段としての休耕の廃止だった。蕪類のような作物は、生育期に注意深く鋤き返しをする必要があるから、これを栽培すれば、雑草の殲滅と価値ある作物の生産が同時にできるようになった。

やはり休耕に代わって植えられるようになった重要な作物であるむらさきうまごやしは、ヨーロッパの農業ではこれまで不可能だったほど大量の畜牛用の飼料を準備することとになった。そこで牛の頭数が急に増え、それは食肉と牛乳の生産量が増えて人間の栄養の改善につながると同時に、マラリアを媒介するアノフェレス蚊に対して、ヒトの血よりもずっと好ましい牛の血を提供してやることになった。

十八世紀にイギリスで急速に進行した荒地や田野のいわゆる囲い込みには、家畜が過剰飼育される牧場を出現しにくくさせるという副作用があった。羊や牛が個人によって所有される比較的小さな群れに分割されるようになったわけだが、このことが家畜、家禽の健康を著しく増進させたのは間違いあるまい。以前のように、共同の牧草地に家畜を過剰飼育することが、個々の村びとにとって自分に与えられた権利を最大限に行使して利益を上げる唯一の方法だったときに比べて、家畜はずっと餌が良くなった、ということがまずあり、また、家畜や家禽の病気感染の連鎖が断ち切られやすいことにもなった。以前は、家畜どもは村の共有地を自由に歩きまわっていて、近くの村の家畜と接触することもいくらもあった。或る共同体の牧草地と隣の共同体の土地の境界に柵など無く、ずっと繋がっていたからである。だから、何らかの感染症が容易に村中の家畜、さらに近隣何マイルもの家畜全部に広がりやすい道理だった。柵が設けられ田野が囲い込まれて、ひとつの村の家畜さえいくつもの相互に孤立した群れに分けられることになったとき、こうした家畜の感染症はずっと発生しにくくなったはずである。そしてその変化は、人間の健康にとっても大きな意味を持った。牛の結核ブルセラ症その他、数多くの動物の病院が人間に移行する可能性を備えているからである。
その種の感染症の減少と、それに並行して起きたマラリアの消滅は、一六五〇年から一七五〇年までの間にイングランドの疾病体験を大幅に変えた。それに反し、フランスでは、囲い込みも行われず、新方式の農業も十八世紀にはまだほとんど始まっていなかったので、農民の健康状態は悲惨なものだった。全国のあらゆる県で、疫病と慢性的な感染症が流行し続け、流感、赤痢、肺炎、それに軍隊発汗熱(腸チフス)など、それほど目立ちはしないがやはり致死性の一連の感染症が加わって、詳細な記録を官庁が作成し始めた一七七五年以降にも、フランスの農民の生命はあどんどん失われていった。両国とも基本的に農業国だったにもかかわらず十八世紀のイギリスの人口増がフランスをはるかに凌いでいる以上、イギリスの田園地帯における健康状態が、フランスで広くみられた状態と比較して著しく良好になっていたことは確実である。だがあいにくなことに、フランスの役所が一七七五年から編纂し始めた病気の発生状況の記録に相当する公式記録がイギリスには無いので、直接の比較は不可能である。

農業労働の効率が著しく高まったことである。健康な人間の方がよく働く。しかも規則的に働くのだ。

種痘を受ける人物は天然痘を購う者であるとされ、取引を有効にするため、種痘を施す人物に祭儀的な贈り物をしなければならなかった。種痘は親指と人差し指の間に施したのでその痘痕ははっきりと誰の目にも見え、その人物は以後、一種の儀礼通過者として遇されることとなった。儀式全体は一種の演じられた商取引きの観を呈したというが、民衆レベルで種痘の普及したのが隊商のメンバーを通じてだったということは、誰でも容易に理解できよう。隊商を組む貿易商人たちは、天然痘への防御ができていればはっきり有利だったからである。だから、種痘が普及していった地方では、彼らが最初まずそれを耳にし、自ら試み、隊商交易が長距離通商の主な形をなしていたユーラシアとアフリカの各地に、民間療法としての種痘を広めていったであろうことは、容易に想像できる。

レディ・メアリはまた、異国の文明なるものへの、全く新しい対応の仕方をイギリスにもたらしたとも言い得る。恐怖心や侮蔑、あるいは遠方からの否定し難い脅威に対してしぶしぶその力に敬意を払う、といった態度とはまるで違って、彼女を中心とする一群の連中は、オスマン帝国の人びとの生活を、人間の行動様式のもうひとつの例と見、強い興味を持って対したのである。このような、何の役にも立たぬ無償の好奇心を抱くためには、余暇が必要であり、さらに、自分たちの伝統的生活様式の方が根本的に優れていているのだという抜き難い自信も不可欠であろう。そのいずれも、レディ・メアリの貴族グループは充分に備えていたわけである。

一七世紀の天文学者数学者の書発見が、一般人の世界観の基礎となるためには、その前に、疫病が人間の精神と肉体に対するその強力な支配の手を緩める必要があった。ペストとマラリアの消滅、天然痘の制圧ということは、十八世紀の進歩的な連中のグループに理神論的な諸思想が広がってゆくために不可欠な前提だった。

ペルー起源の真菌類寄生生物の一種が、ヨーロッパの発芽期にある馬鈴薯畑に成功裡に侵入することができた一八四五年以後、数百万の人びとにとって破滅的な相を帯びた。何百万人という極貧のアイルランド人、ベルギー人、ドイツ人が主食にしていた馬鈴薯の凶作が各地に広がった結果、数百万人が死に、アイルランドの農村における異常なほどの人口増は、このときを境に突然停止してしまった。そしてその後の数十年間、全世界にわたるアイルランド人の流亡は北米、オーストラリア、その他大英帝国の各地に大きな影響を及ぼした。

生態学的問題の常として、決着がつくことなどあり得ないだろうと思われる。

インドの各地にコレラを伝播する古くから確立していたパターンが、新しくイギリスによって押し付けられた通商上・軍事上の移動のパターンと交差した、ということであろう。

イスラム教徒は以前からペストに対してはすっかり観念していて、ヨーロッパの隔離検疫の努力を滑稽なものとみていた。だが、未知のコレラがもたらす死の異様な恐ろしさと迅速さは、エジプトはじめコレラに侵されたイスラム園の諸地方の住民に、ほとんどヨーロッパ人と変わらぬ脅威を感じさせた。イスラムの医学も宗教的伝承も、これにはなんとも太刀打ちできなかった。そこで、コレラが引き起こした民衆の恐慌状態は、イスラム世界においてさえ、伝統的な権威と指導力への不信感を醸成し、ヨーロッパ医学受容へ道を開くことになった。

そのような軍隊の維持ということは、保健衛生上の規則と兵士一人一人の衛生状態が進歩して、冬と夏とにかかわりなく、また戦場においてであろうが兵営内であろうが、疫病による兵員の損耗を比較的低い割合に抑え込んだとき初めて可能になったのである。「つばきを付けてピカピカ磨け」その他、祭儀的なほど清潔さの重視は、ヨーロッパ諸国の軍隊がこの目的を達成する手段だった。十八世紀にこそこすした習慣が根をおろしたのであり、兵役体験の実感的な内容は大きく変化した。だが、ヨハン・ペーター・フランクのような医者が発表した高度な医学理論と下士官や下級将校が、兵隊たちに怠ける暇を与えないため、かつはまた彼らの健康を保ち戦闘能力を高めるために考え出した、知る人も少ない様々な日常の訓練法との接点に、研究のメスを入れた者はまだいないように思われる。

イギリス海軍がフランス全港湾を年余にわたって封鎖し得る能力を示したのも、弾薬ばかりでなくレモンジュースの力に負うところが大きかったわけである。

少なくともイギリスでは、自分の財産を自分で処理するのは個人の権利であり、それを侵すような強制的な規制措置は一切許されないとする、自由意思論的偏見が深く根を張っていた。そして、病気とその伝播についての論争がまだ依然として続いている限りは、あからさまな強制措置は一般の同意を得ることが難しかった。

こうしたスラムは、地方からの移住の伝統的パターンと入り口に蝟集するそうした新入り連中にとって都合よく減っていってくれなくなった都市人口という現実との衝突を、まざまざと形象化しているわけである。

フランスの試みは、費用が膨大な額に上がって耐え難いものとなったため、放棄されざるを得なかった。それも、マラリアと黄熱病のため労務者の死亡率がきわめて高かったのが原因だった。だから運河の開通に成功するためには、蚊の媒介する病気を抑えることが何よりも肝要ということになった。そこで、アメリカの政治指導者たちと軍司令官たちは、これまでの例のない多額の予算を、その仕事に任じられた医務官の使用に供した。

軍事医学行政の飛躍的進歩は、二〇世紀の開幕とともに実現した。それまでは、最良の状態に管理の行き届いた軍隊が、しかも作戦活動に従事している最中でさえ、病気のために敵軍のいかなる軍事行動によるよりはるかに多くの死者を出すのが常だった。例えばクリミア戦争(一八五三−五六年)で、イギリス兵は、赤痢による病死者の方が、ロシア軍の武器による戦死者の合計より十倍も多かった。それから半世紀近く経たあとのボーア戦争(一八九九−一九〇二年)でも、公式記録の報ずる英軍の病死者は、敵軍の軍事行動による死者の五倍に上がった。ところが、それからわずか二年後に、組織的な予防接種と厳重な衛生管理がいかなる成果を挙げ得るかが、日本人によって示された。すなわち、日露戦争(一九〇四−〇五年)での日本軍の病気による損耗は、敵軍の軍事行動による死者の四分の一以下だったのである。
この著しい成果を他の国ぐにが見逃すはずはなかった。

一九四三年ナポリで民間人を対象に全面的かつ強制的なシラミ駆除を実施したため蔓延しかけていた発疹チフスを食い止めたなどは、その好例だった。また、無数の難民キャンプや強制収容所その他、流亡の民を収容する種種の公的施設でも、軍隊や軍用労務者に対して甚だ有効だった保健管理システムが、程度はまちまちながら、適用されるのが普通だった。
いまひとつ第二次世界大戦中の健康管理の改革が生んだ顕著な副産物は、食料配給制を通じての健康の改善ということだった

インフルエンザはずっと以前からかえら存在し、その感染のスピードと免疫の持続期間の短さ、それに病原ウイルスの不安定性で際立っていた。一九一八−一九年には、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカの軍隊が北フランスで合流したため、未曾有の規模を備えた疫病が出現する環境が整ったのである。新しい変種ウイルスが犯人で、これは宿主たる人間に対してこれまでにない破壊力を持っていた。流行は全世界に広がり、地球上のほとんどすべての人間が感染し、二千万あるいはそれ以上が死んだ。インフルエンザが襲来すると、医療従事者は皆すぐ仕事が過重になり、医療活動は停滞した。だが、ウイルスがあまりに強い感染力を持っていたため、かえって深刻な事態はあっと言う間に過ぎてしまい、数週間のうちに全人類が以前の生活に戻り、病気は速やかに消え去った。

これ読んでて10年以上前にやってたかざあなダウンタウンという番組を思い出す。ソムリエを覚えましょ、てことでみんな木村祐一以外初心者ながらさくさくやっていくのだけど、ジミー大西が全然できなく、全員から何回も突っ込まれて、そこで「兄さんの面目まるつぶれ」って、言ってたな〜。