高齢者医療の境界の根拠は突き詰めるとなんとなく、じゃ駄目かな?

極東ブログ 6月19日の記事:[書評]わたし、男子校出身です。(椿姫彩菜)

生物学的な男が、社会的な女たらんする欲望の物語のように私には思えた

ひょうたんからこまというか、そういうみかたをするとそうか〜と思う。どちらにしても気質が大きく関わってると思うものの。
男が女らしいカッコには確かに難しい、女装していれば少なくとも職務質問を受ける可能性は高いと見て間違えない。映画ゼブラーマンで変身しただけで捕まる?と先生の不安の通りである。世間一般の大方の不細工な人々がなりたい自分から阻害されてるかと言えばそうであるけども、新宿二丁目を見るとそうでも無い気もする、場があればと言うことかもしれない。地方の繁華街でもいるし小さな町の住民の好不評あるものの飲み屋で切り盛りしてる人もいるだろう、う〜む呑み関係が多いのかな?現代衣料の選択幅限りなく広くなる一方でサイズ取り方は違えど男女両用服が割合として大きな位置を占める。服装が決定的に重要な性差の意味をもつ人びとが世界的人口比で考えればいまだ大きい所を占めます。転じてイスラムなどみなくとも世界の服装拠点であるパリ・ミラノ・ニューヨーク・東京をみても性差を前提に作られてる。むしろ強調もする。そしてある種ショーでは概念の存在が着るものであり性差を意識する必要が無いと言えば無いともいえる。あんま性差を意識させないのはぱっとしないもんでもあるのでしょうけども。
よくわかんないですけども、基本他人ごとなら自由に、と思うわけですよ。思うようにした方がそりゃ良いですよ。大人は取り合えずともかく、ただやっぱ難しいというか、ぼくのバラ色の人生 1998 仏 て映画がありますけども、これはまだ子供なのでその扱いはどうなんだというと、う〜んな感じです。引っ越して一段落した時にちょっとでも女っぽいことしたらお母さん烈火のごとく怒って泣き崩れるんですよ。いやはや、おばあちゃんも困った顔で見るしかないよ。
生物的性差の超越は昔からそうであるよう、成功者の間というか塀の向こう、あいつら、雲の上、の存在なのかもしれない。社会的にそうである場合その雲の上の世界が近づいたというこなんだろか。
ズッコケ三人組は懐かしいな、図書館で読んでたよ。