援助する国される国 (その1)

お目ものーと
援助する国される国 服部正也 中央公論新社 (2001/02)

「社会資本の不整備は、国力不相応の社会資本の維持・補修という財政負担がない」、「外国人技術顧問が無能であることは、ルワンダ人官僚を登用しても政府の能率が大きくは下がらない」、「ルワンダ人官僚が訓練不足であることは、彼らが植民地政府の考え方にあまり洗脳されておらず、意識が一般国民に近い」、「内陸国であるために高くかかる輸送費は、保護輸入関税と同様に、輸入代替の国内生産を容易にする」、「人口密度が高いことは、労働力が潤沢であることと、国内経済の市場化が容易であること」を、それぞれ意味すると気がついたのである。

資金が枯渇している途上国政府は、背に腹はかえられず、国際機関の要求する施策を納得しないままに、その実行を約束することが多い。政策実行者である政府が納得しない施策成功する可能性はきわめて少なく、また、一時、対症的に成功しても、根本的な病原を治療する処置がなされていない「治療」は、時としてはかえって、病原を悪性化、長期化させることがある。

国際機関にはタフ・ネゴシエーター(手ごわい交渉者)を称揚する風潮があり、また、国際機関の内部管理はきわめて粗雑であるから、組織内部からの改善は期待困難であり、加盟国政府の代表で構成する理事会が、指導と監督を特に強化する必要がある。

国連に途上国援助の機関は多数あるが、途上国で働いた経験では、途上国にとって本当に役に立っているものは、国連難民高等弁務官事務所と国連児童基金のほかは、数少ないように思われる。

途上国は発展のための投資を賄う貯蓄が不足しているので、先進国からの資金移転が必要であるとの「貯蓄ギャップと資金移転」の説であった。
私は健全な投資のために必要な先進国からの資金移転は有益であるとは認めるが、当時の世界銀行では、資金移転をすれば、開発は自動的に起こると解釈されていたもようであった。このような環境で、総裁の意を迎えるためか、年間貸出し計画がきわめて野心的に設定され、その達成を急ぐあまり、事前の調査、政府との対話、発展効果の検討など準備不足のまま、理事会に提案され承認される案件が多く、途上国の発展に寄与することより、貸出し計画を達成することが主要関心事である感があった。

当時のルワンダ農民のほとんどは全部は自活農であり、彼らにとっては家族の食料の安定確保が第一であることから考えれば、たとえ嗜好的には不味くても一年中天候に関係なく実るバナナをまず植え、次いで芋類を植え、それで充分な食料が確保されてから嗜好的に好ましい豆を植えるこの農作法はまことに合理的なものである。
作物は当然嗜好の順に消費されるから、最後はバナナが過剰となるのでビールにするのである。

世界銀行で親しくなったドイツ人の農業技師にこの話をしたら、彼は以前農業指導員として勤務していたインドでの経験を話してくれた。農民が水田で米の苗を束にして植えているので、一本ずつ植えるよう何度も指導したのに、農民は相変わらず束にして植えていたので、インド農民は保守的で農法改善の意欲がないと諦めていた。しかし、その後、灌漑用の水の管理が改良されたら、農民は自発的に一本植えをするようになった。インドのモンスーン(雨季)の時期には、水の管理が悪いと、激しい雨水で一本植えの苗は流されてしまうので束植えをしていたのだ、その心配がなくなったので自発的に一本植えにしたのだということが初めて分かって、農民の知恵を過小評価していたことを反省させられたとのことであった。

この援助協定を更新するとき、タンザニア側は、「鍛冶屋はいろいろな農器具を作って実績を上げているが、今後はもっと多様な農機具の製造に拡張していただきたい」と申し入れた。タンザニア側は、今の製品は役に立たないから、鍬を作って欲しいということを、当方の気を損ねないように外交的に言ったものと思われるが、どうも我が方は褒められたと無邪気に思ったらしい。

ことに実務家レベルでは、外国語が堪能な人は少ないのが通例であり、相手の真意を知るためには、相手の合理性を信じて、根気よく対話することが必要である。さらに、外国語を話すときは、必然的にその外国の考え方が出てくるものであることも考慮しなければならない。
ルワンダの経済再建策を準備する段階で、若い官僚が、通貨切り下げになれば物価が上がって国民は苦しむと言ったので、たとえばどのようなものが値上がりすると思うのかと聞いたら、パンだという。ルワンダ人のうち何人がパンを食べるのですかと聞いたら、そういえば余りおりませんねと納得したのである。この人はフランス語を使っていたので、「パンは主食」というフランスの考え方に無意識に影響されていたのである。
現地住民との対話は、ほとんどの場合、通訳を使わなければならないが、その通訳が現地住民の信頼を受けているかをまず確かめる必要がある。多言語国では、政府の官僚であっても、国のあらゆる言葉を知っているとは限らない。また、現地の言葉を知っていても住民の信頼を得ているとは限らない。そのような通訳を介しては、住民の本音を聞くことは難しい。

技術指導に関しては、やって見せ、やった結果を見せて納得させ、やらせて自信をつけさせることが大切である。口で説明しただけでは、アフリカ人は外国人の不適切な指導に慣れているから、信用されない可能性が高い。

アフリカ人に礼儀正しくせよということは、何もその国の挨拶の言葉や作法までを覚えよということではない。相手の話を真面目に聞くこと、分からないことは率直に質問することなどで、相手の合理性を信じていることを納得させることが肝要なのである。

彼が帰国してから組合の経営は危機的になったので、支配人はスイスに「美しいアマフランガ欠乏、汚いスイスフラン至急送れ」と電報したとルワンダ人が笑っていた。

中央銀行の理事が日本銀行の新館建設の地鎮祭の写真を見て、「何をしているのだ」と聞いたので、「フランス語で言えば、土地をbenir(祝福)しているということだろうか、儀式の趣旨は土地からいろいろの汚れを払って清めることなのだ」と答えたら、驚きをこめて、「日本のような先進国で今でもそんなことをしているのですか」と聞く。「これは二週間前の写真だ」といったら、実はルワンダでも家を建てるとき、土地から悪霊を払う儀式をするのだが、教会から邪教の儀式といわれているので、隠れてしているとのことであった(この建築に際しての土清めの儀式は、他のアフリカ諸国でも行われている由である)。
この一事からみても、宗主国キリスト教団によるアフリカの伝統否定がいかに深刻であったかが窺われる。

穏やかなイスラム教が普及しているアフリカ諸国では、宗主国の人種差別による「教化」はあっても、伝来の慣習の否定は少なかったように思われる。

これで私はルワンダ人の所有に関する考え方が分かったような気がした。警察力の不十分な社会では、自分の物は自分が守るのが当然で、人が大切にしている物は取ってはならないが、大切にしていないものは捨てられたのと同じであり、取っても構わない。大切かどうかは、取ってみて、所有者が文句をいわなければ、大切ではないことが分かるからそのまま頂戴する、ということなのである。

(時効の慣習法がある)

経済発展に不利なはずの小島国と内陸国が、地下資源国より高度の成長を遂げているのである。小島国の好成績は、人口に比してきわめて多額の政府開発援助を受けているためともいえるが、内陸国の場合は、たとえば一九九〇年の実績では、各国の一人当たりの政府開発援助の受取り額の平均は、五一.六ドルで、地下資源国の六二.一ドルより低いのである。先進国と国際機関の援助官僚や、研究者の途上国に関する発言が、実は確たる根拠がなく、先進国の事務室や研究室での想像の産物であって、あまり当てはまらない一例である。

アフリカの対外債務問題は一九八〇年以降悪化を続け、一九九六年には他の途上国よりも格段に深刻な状態となっているのである。しかるに、アフリカの累積債務問題は一九八〇年代のラテン・アメリカの場合のようには、世間の関心を呼ばなかった。それは、第一には、第五表の示すように、ラテン・アメリカの場合には、一九八〇年の対民間債務が二一〇九億ドルと多く、しかも、そのうち短期資金が六八五億ドルで、その債務不履行は世界の金融界を揺るがせかねない規模であったのに対して、アフリカの場合は一九八〇年の債務総額がラテン・アメリカの三分の一弱、かつ、その大部分が、政府および国際機関であって、延滞利子を含めた対民債務は五六七億ドルと少なく、世界の金融機構に大きな影響を与える規模ではなかったことによる。

日本政府や世界銀行が「発掘」して融資した案件のなかには、国の返済能力を考慮せず過大な借入れを勧奨し、あるいは事前調査不備などで失敗した事例もあり、本来は、貸し手側で陳謝して自発的に債権を放棄すべきものがあるが、官僚としては所属機関の「威信」を損なうようなことはできないらしい。

第二次大戦後、植民地の独立が宗主国によりあまり抵抗なく承認されたのは、ド・ゴールの回想録でも書かれているとおり、大戦で経済的に疲弊した宗主国が、植民地経営の負担に耐えられなくなったためでもあった。このことは同時に、新たに独立した旧植民地は植民地時代の体制と政策を踏襲する限り、自立できないことを意味するのである。

海運の面では、アフリカからの輸出原料の量に比べて、低賃金の関係でアフリカで販売できる工業製品の量が比較的少なかったので、宗主国の港で、アフリカ向けの商品に加えて、購買力の比較的豊かなアジアの植民地向けの製品を満載し、これをアジアで荷下しして、代わりにアフリカの鉱山、農園労働者用の米を積み込み、アフリカで宗主国向け鉱物や農産物と積み替える三角運航により舟腹の使用効率を高めたのである。これは、鉱山、農園労働者の食料を大量に現地の自活農民から調達するよりは、輸入する方が経営上効率的でもあったのである。

三角運航による米の輸入でアフリカ人の間に輸入米に対する嗜好が起こり、国民の八〇%以上が農民であるのに、アフリカの輸入食料依存度が高まったのである。こうして、アフリカの経済は、近代的な経営の行われている輸出鉱業および輸出農業部門と、現地住民市場向けの伝統的な手法の鉱物採掘、手工業と自活農業部門との、相互に関係の薄い二重構造化が定着したのである。このように、植民地経営は、宗主国の商工業資本には莫大な利益をもたらしたものの、植民地の社会的・経済的発展への寄与はきわめて少なかった。
また、鉄道、水路、道路の交通路は、輸出産品生産地と港の間は整備されたが、それ以外は放置されたため、国内市場の発展は著しく遅れることになり、近代的な都市および輸出一次産品産地、伝統的な自活農業地域との経済的、地域的二重構造の原因となった。

私のルワンダ勤務の当初でさえ、ザイールのシャバ州の銅山では、カタンガの自活農民は鉱山労働に応じなかったので、ルワンダからの輸入労働力に頼っていた。この外国労働者の大量輸入がアフリカ諸国の社会に与えた影響はきわめて大きく、アフリカの民族問題の原因の一つとなったのである。

現地の商業活動の大部分を握っていたアラブ、インド、パキスタン人などは、生活慣習、宗教が異なるばかりでなく、経済活動が不透明であったため、経済力はあったものの、異質人種として白人からも、アフリカ人からも差別されていた。

この方式は、宗主国に対する服従と引き換えに、伝来の権力者の土地、住民に対する支配権を認めることにより、支配者を懐柔し、その謀反の可能性を封じるもので、鎌倉時代封建制の「本領安堵」に似通っている。

その国境線は多くの場合、関係宗主国にとって利権的に興味の少ない地域に引かれたので、国境管理は厳重ではなく、現住民は事実上自由に両植民地間を往復できた。

後に独立国となった植民地の多くは、従前は、一つの植民地政府の行政区画に過ぎないものであり、同一宗主国の植民地では、後に述べるように宗主国通貨にリンクした通貨が流通し、植民地間の人と物資との移動は自由であった。

宗主国の利害に関係のない事項に関しては、植民地政府としては植民地法が適用されるかどうかについては無関心であり、外国人に関係のない現地人関係では伝来の不文法や慣習が事実問題として守られ、現地人の間の土地問題その他の民事関係や、刑事事件も現地人支配者の法廷で処理されていた。このように、植民地では法制的にも、二重構造となっていたのである。

(ベルギーの植民地であったルワンダでは、十字軍についてはベルギーの領主が総指揮官であった第一回と第四回だけが教えられていた)。欧州中心の教育は、宗主国の大学に進学するためには必要なことであった。

現地大学の例はあり、その学問の水準は必ずしも低くはなかったが、戦前、台湾では台北帝国大学よりは、東京の私立大学の評価が高かったように、現地での一般の評価は低く、現地人エリートの養成は宗主国の大学で行われるのが通例であり、そこへの進学は、中高等教育での選別の結果、ほとんど現地有力者の子弟に限られていた。このことは、アフリカのエリートが、年少時から自国の社会、文化、伝統、一般住民から隔離されていたことを意味しているのである。

第二次大戦勃発と同時に、これら宗主国は戦争遂行のため、通貨圏の加盟国からの自国通貨による輸入を増大するとともに、加盟国に従来認められていた、宗主国通貨預金の自由使用を制限し、外貨への交換を停止して、アメリカや中立国からの軍需品生産原材料、食料、武器などの輸入に集中して外貨を充てたのである。これにより、宗主国の植民地名義の預金残高は巨額に上ったが、大戦終了後も、宗主国の経済復興が先決であるとして、この植民地名義の預金の使用制限と交換停止は継続された。
しかし、大戦で疲弊した宗主国経済は、この使用制限、交換停止の解除の負担には耐えられなかったので、ついに、一九四九年のポンド切り下げ、一九五七年、一九五八年のフランスフランの二度の平価切り下げによって、植民地その他の加盟国の戦争協力の果実である加盟国名義の宗主国通貨預金の対外価値の一方的切り捨てで対処して、ようやくその自由使用と外貨交換を復活できたのである。

植民地官僚を本国で大量吸収することが困難であって、その失業問題を避けるという考慮があったことも事実であり、植民地官僚のうち、本国で転職できない、比較的能力の劣る者が残ることになったことも見逃せない。
独立移行の準備は、宗主国政府と、宗主国と親しい現地の有力者との間で進められ、独立に際してはその有力者が大統領に就任した。アフリカの植民地で、反宗主国の運動は、ごく一部の国で小規模にはあったものの、全国的に独立の気運が起こっていた国はほとんどなかったのでこのような元首の選び方はやむを得なかった面もあったが、宗主国に選ばれた元首の多くは国民の大多数の支持を受けてはいなかった。

問題があったとき、外国人顧問の意見に従ったということが免罪符となるので、「地位と俸給は自分、実務は顧問」という無責任行政を育てることになった面もある。

アフリカ諸国の大部分は、心理的にも体制的にも独立への準備不足のまま独立したのであって、まさに「与えられた独立」だったのである。

外貨管理権と通貨発行権をこれらの共同機関に委ね、併せて、政府と民間に対する信用供与の裁量権を与えることによって、新独立国各政府の財政赤字支出や民間の放漫な貸出しを封じる方策を採った。
フランス方式はさらに巧妙であった。フランスの援助資金は、共同銀行の受取り国名義の勘定に預託されるのであるが、その預託を前倒しにしたり、おくらせたりすることで、受取り国の外貨資金繰りを操作し、フランスの好まない政策を採る国に圧力を掛けられるようにしたのである。
その他の国については、国際通貨基金IMF)が、中央銀行の設立に積極的に参画し、中央銀行から政府貸出しに厳しい制限を課し、政府の中央銀行役員の罷免権を制限し、国内信用規制、外国為替管理と輸出入管理を中央銀行の専管事項にするなど、中央銀行の政府からの独立性とその権限とをきわめて強いものにする一方、先進工業国の中央銀行からの幹部や指導員の派遣を斡旋し、財政金融の健全性の確保を図った。私もこのIMFの技術援助制度でルワンダ中央銀行に出向したのである。

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3)日銀は通貨の信認が低下することを懸念するが、もし過剰にインフレを懸念するならばインフレ目標を導入すべきである。

大人になってからインフレ懸念を実感したことがいままでないのにもかかわらず、インフレ目標というとき、この説明がしっくりくるというのは、僕はオールドタイプなのだろうか?

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めずらしくお茶してると、隣の席の女性2人が「22で残ってたら、もう良い相手、いないんだって」と、でその心は「良い奴は大学時代に結婚を決めるから」と。ああ、そりゃそだね。